ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

31歳になったので過去10年を振り返ってみました

time 2011/10/05


久々の更新です。先日、おかげさまで無事31歳になりました。多くの方からメッセージをいただき、どれだけの人に支えられてきたのかを感じることができました、ありがとうございます。このブログの最大の目的である、「自分の思考の軌跡を残す」ことを最近してなかったので、とある尊敬する同年代の方のブログになぞらえて、少しこの10年を振り返ってみようと思います。なんでいきなりですます調がなくなるのか分かりませんが、このほうが色々飾らなくて済みそうなので、ぶっきらぼう編にしたいと思います。
(2001年)21歳の僕は、ただのアホだった。大学3年生になり、新たに入ったゼミがあまりにも楽しすぎ、それまでの真剣にテニス、真剣に極真空手、という生活から、真剣にビール、真剣にビール、たまにちょっとだけお勉強、というスタイルになってしまい、この頃から当たり前だけど筋肉は落ち、脂肪が増え、体内組成は大きく崩れさることとなった。週5回ぐらい、午後4時から飲み始め、朝4時ぐらいまで死にそうになりながら粘り続ける生活。日本の大学生は世の中で一番アホだと今でも思っているが、こんな生活で頭が良くなるわけがない。「大学」という名称も取り上げたいぐらいだ。中学とか高校に失礼だ。かわいい子が多いと評判のゼミで見事その術中にハマり、ゼミ以外の人たちと過ごした記憶が全くないほど、ゼミまみれだった。ちなみにこのとき同期だった子がその後自分の奥さんになるとは、つゆ思わず。。
(2002年)22歳の僕は、就職活動真っ最中だった。悲しいことに、同期のほとんどがもっていたであろう、「こういう業界でこういう仕事がしたい!」という夢のようなものは全くなく、ただただ初任給の高い会社を目指していた。初任給というとそこは外資金融、そして父親の勤めていた戦略系コンサルだったが、そこは僕らしい。外資金融は思いついた頃には採用がほとんどすべて終わっており、戦略系コンサルは頭が全くついていけず、ほとんど門前払いだった。最終まで行った某国内最大手証券の最後の面接のために、それまで進んでいた選考をすべて切り捨てていったものの、覚悟が伝わらずなんと落選。失意のどん底にいたときに何かの流れでぱっぱっぱっと進めたシスコシステムズに内定が決まった。確か6月まで決まらなかったので、結構どきどきしたと記憶している。
時を同じくして、同期からしつこく誘われていた一人旅についにデビュー。親日的と言われていたトルコ、そしてトルコ航空の無料往復のついていたエジプトに、はじめてたった一人で何も計画せずに突っ込んだ。また詳細は旅の話で書きたいと思うけれど、この旅で僕の人生観は、そしてその後の人生は間違いなく変わった。このときの旅のテーマは「優しさ」僕は、人に優しくできない自分に悩んでいた。正確には、優しくしたいのだけれど、優しくしている自分を見られるのが恥ずかしいというよく分からない理由で、人に優しくすることを拒んでいた、いま思えば本当によく分からない青春だった。大変なことだらけでとにかく大変だったけれど、とにかくこの旅は最高だった。このあとに行ったイタリア、メキシコ、ペルー、ボリビアもそれ以上に最高だった。旅は僕の人格形成のかなりの部分に寄与してくれたと、今でも思う。
(2003年)23歳の僕は、ついに就職した。転職した今振り返っても、世界最高の企業の一つではないかと真に思う。まず、オフィスがキレイ!そして飲み物がタダ!世界中どこでも自分の電話がとれる!外資系ITってのがカッコいい!初任給が高い!ほかの人はもっと高い!
上記のどれとして、この会社の本質を突いたものではないし、決して人生に重要なものではないと後になって気づくのだが、そうは言っても23歳の若造に見える会社の感想なんてものは、せいぜいこんなところだった。その偉大さに少しずつ気づき始めてた父親に、「シスコいいんじゃない?」と後押しされたのも、シスコに決めた理由の一つだった。
配属希望で、ずーっと東京で育ってきて一度も東京出てないのはなんかショボイ、と思いつき、一人暮らしわずか3ヶ月のくせに、愛知のT社担当希望を出したら見事通ってしまい、人生初の東京以外生活が決定。大変失礼なことに、東京以外に日本があると思っていなかった僕にとって、初めての「海外生活」となった。マナーすら知らない社会人一年目だから、学ばなければならないことはそれこそ腐るほどあった。同時に、社会人になる前に抱いていた偉大な夢が、少しずつ自分の中で現実とすり合わされ、等身大の目標に変わっていきはじめたのもこの頃だ。配属されたチームの方々は上司はじめ皆優しく、それゆえに甘ったれた社会人の先鋭となってしまった感はあるかもしれない。いい意味でも悪い意味でもかなり巨大な顧客を相手にしていたチームのため、会社の力の入れようも半端ではなく、あれよあれよというまに海外とのやり取りも担当させていただくことになった。
(2004年)24歳の僕は、社会人2年目になった。引き続き大きな顧客を相手に悪戦苦闘の毎日。いわゆる理想と現実のギャップに苦しみはじめていた。旅をしていた頃に誓った世界平和は何だったのか、世界に学校を作って、希望を持てない子供たちに夢を与えて、そんな自分に酔いしれながら、なんていう目標はほとんど吹き飛び、何をやっているのか分からない状態に。もっと自分は出来るはず、という自分への信頼と、現実的に何もできない社会人2年目の実力のギャップから行動停止に陥り、結局当たり前のことすらできずにだんだん堕落していくのが分かる日々。。精神状態はあまりよくなかったように思う。一生懸命働くことよりも大事な何か、成功に近い道がどこかにあるのではないか、そんな勘違いをしながら毎日過ごしていたと記憶している。そんなことは絶対にあり得ないのに。。。
(2005年)25歳の僕は、あまり仕事をしなかった。惰性の中で生きていることがはっきり分かり、チームとしても色々なトラブルが重なって、全員の状態が良くなかったと思う。その中でも、若さを盾に一人気を吐かなければいけないはずの歩兵の僕は、あっさりと波に飲まれて何も出来なくなっていった。ITの仕事はハマると出て来れなくなるほどのトラブルが発生することがままあり、いったい何のために仕事をしているのか、と根本的に疑問符がともってしまうようなよろしくない状態だった。英語もかなりしゃべれるようになって、捌ける仕事の量も増えてきたのだけれど、根本的なところで不満を抱えたままの状態だったので、いい仕事が出来るはずもない。
(2006年)26歳の僕は、決断をした。かねてから誘われていた今の会社に、「こんなすげー仕事があったのか!!??」と、これまたあまり深く考えずに、しかし当時としてはそれなりに考えて転職。自分としては、大切な人や大切なものを大切にしながら生きる、という当たり前のことをするために仕事をするのであって、それ以外は仕事の目的としては適切ではない、と断じてそれに適した仕事形態を選んだ。結果としてこの転職は大成功を修めるのだけれど、当時は正直ベースな話、「逃げ」もあったと思う。会社にいる人はあまりに頭が良すぎ、ついていけなくなりつつあった不安。本当に大切なものを本当に大切にしていない(ように当時は見えた)人たちと働いていることにより、自分もいつかそうなるのではないかという不安。夢が夢のままで終わりそうなのが、はっきりと分かりつつあった不安。色々な不安に対して正面からぶつからず、一度リセットしたくて逃げるように転職した、というのが、もしかしたら本当のところかもしれないと、今では思う。
同時に、彼女だった今の奥さんにプロポーズした。とある研修で、「失敗する人間は外側の人にいい顔をし、成功する人間は内側の、最も近くの人を大切にする」と言われたときに頭をハンマーで殴られたような衝撃に襲われ、そーだったのか!とその後の思考を一大転換。こんなに俺を心配してくれてる彼女すら幸せにできずに何が成功だ!と心の中で叫び、愛知だけどよろしいかとの了承を得た上でプロポーズ。シチュエーションを考えすぎて、プロポーズは感動的に演出できたのだけれど、そもそもそのときの僕の格好はパンツ一丁だった。
転職前に有給が残っていたので、インドに3週間旅に出た。これもまたいずれ書きたいけれど、まぁすごい国だった。インドへ発った二日後にあちらの新幹線が爆破され、200人以上の方が亡くなった。全然違うところにいた僕からすれば、ほとんど外国の事件の一つだったのだが、日本にいた親族および将来の「奥さん」は、かなりびびった様子。プロポーズ直後に死ぬとはどういうことだおい!と、非難ごうごうだった気がする。入社後も、インドでハエに舐められた傷口からの感染症らしき症状に苦しみ、足が腫れて歩けないし、常に微熱が続く毎日。保険営業のくせに保険に入れないようなアホな状態が続く。。
ラッキーもあり、成績上位者の入賞基準である社長杯に入賞。世の中には、本物の化け物がいるということに後に気づくことになるが、このときはまだ単に調子に乗っていただけだ。
(2007年)27歳の僕は、結婚した。正確には26歳9ヶ月での結婚。同期の中ではトップクラスに早かったように思うが、今でも良く決断したと思う。あっぱれ、その頃の僕。「どうしようもない僕に天使が降りてきた」という槇原さんの歌があるが、「どうしようもない僕に妻が降りてきて羽交い締めにしたけど最終的には自分で決断できたから自分で自分を褒めてやりたい」という歌を将来出したい。守るものがあるのとないのとでは、それこそ天と地ほどの差がある。このあたりから、僕はアウストラロピテクスではなく、ネアンデルタールあたりまで昇進したのではないだろうか。母親に3000g超の生まれた当時の僕の体重と同じ重さのクマのぬいぐるみをプレゼントしたときは、今までの人生で一番感謝した。
仕事も比較的順調で、社長杯は2年連続入賞を果たすことが出来た。話は前後して、7月に初年度入賞のお祝いにハワイに連れて行ってもらったのだけれど、あれほど苦労して入賞した社長杯に、8年、9年、10年と連続して入賞している先輩たちが、それこそゴロゴロいた。なんなんだこの世界は?と、化け物たちを前に、誇らしい気持ちどころか、恥ずかしい気持ちが湧いてきた。たかだか一回入賞したぐらいで自分をすごいと思い始めていた自分に対して、最大限にイラついた。自分より優れた人間が世の中ではいくらでもいる、ということを、思い知る機会が自身の成長にとってどれぐらい大切なものなのか、ということを気づくのにはあと数年かかるが、それでもこのときの社長杯は悔しくて悔しくて、一生忘れない。
(2008年)28歳の僕は、とてもfragileな成功への階段を登っていた。あとになってすべては実力ではなく、単に周りの人が作ってくれた仕組みに乗って要領よく立ち回っていただけということを思い知るのだけれど、当然のことながらその最中は全く気づかず。いや、十分に気づいてはいたのだけれど、見ないふりをしていたことは否めない。問題点が明確に分かっているのに見ない、先送りする、という日本政府と一緒だ。それでも年がら年中ご家族についての話をしているし、自分も家族を持っていたわけだから、少しずつ家族や愛というものについても、体感しながら理解していった気がする。この頃、僕はネアンデルタールから北京原人ぐらいまで昇格することができた。この仕事の厳しさを目の当たりにして3年目。僕が入社してから何十人と辞めていかざるを得なかったのは、その証左だろうけれど、成果をある程度出すことが当たり前のように求められる立場になりつつあるなかで、自分がそうなることは100%ないと思いはじめていた。ちなみにこの思い込みは、キレイに次の年に洗い流されることになる。
(2009年)29歳の僕は、奥さんからのプレッシャーにさらされていた。東京に帰りたい!東京に帰りたい!そりゃそうだ。念願の子供も授かり、もうすぐ産まれる、というのに、旦那が住んでいるのは縁もゆかりもない愛知県。知り合いもあまりいず、親も近くにいないため、相当な気苦労があったことと思う。でもね、でもね、僕には仕事があるんだよ、とダマしダマし延ばしてきた東京転勤が、喫緊の課題となった。結婚以上に悩んだと思う。結婚にはメリットしかなかったが、転勤はリスク以外の何者もなかったからだ。そもそもそういう制度がない。辞めろと言われる可能性もある。転勤できたとしても、仕事を続けていく仕組みがない。そういう絶望的な状況の中で、今の会社は最高の対応をしてくれた。何の文句も制限も設けずにあっさり前例のない転勤を認めてくれ、今の支社も僕を暖かく迎え入れてくれた。命をかけた転勤とほぼ同時期に、今度は奥さんが命をかけて最愛の愛娘をこの世に誕生させてくれた。こんなどうしようもない僕が親になるなんて、としんみり思いながら、僕や奥さんがいなければ一日たりとも生きられない小さな命を抱え、これから死ぬ気でがんばろうと決意した。
そうしたら本当に死にそうになった。何が原因かはまったくもって今もわからないけれど、体調が極度に悪化し、復活のきざしのきの字も見えないぐらい、苦しむ毎日がここから1年以上続いた。夜は寝れず、ゆえに昼はフラフラ、と思ってもまた夜は寝れず、次の日はもっとフラフラ。子育てで死にそうになっている奥さんと、原因不明で死にそうになっている僕。当然家庭状況は最悪だった。仕事の成果も出るはずがない。すくすくと成長していってくれる娘だけが心の支えだったけれど、そうはいっても娘ですらほんのわずかな支えとしか感じられないほど、僕は追いつめられていた。軽く三途の川が見えたと、リアルに思う。
そうして追いつめられて追いつめられて追いつめられると、少しだけ悟れることがでてくる。世の中にはどうしようもないことがいくつかは必ず存在し、自分の状態がもし仮にそうなのだとしたら、目の前の試練に対抗しようとすると、吹き飛ばされてしまう。そうではなく、まずその試練の存在を受け止め、受け入れることが大事なのだ。乙武さんが、天から与えられなかった手足に関して、もしあったら、という仮定では一切考えないのと一緒で、与えられた環境や試練を、そこに在ることは仕方ないものとして、そのあとどういう考え方や行動をして理想に近づけていくか、それが重要。粉砕できるレベルの試練は筋力で打ち砕くとしても、どうにもならない試練はまず受け入れる器が必要なのだ、そういうことに気づいた。それに気づいて以来、まずはどんな試練でも受け入れられるような器づくりに主眼を置いた学びをしている。そう考えると、日々経験することのすべてが器作りだし、試練はでかければでかいほど器を大きくしてくれる。試練の最中にそこまで悟るのはとても難しいのだけれど、2009年2010年という最悪の年を越える頃には、結構な悟りまで到達できたのではないかと思う。
(2010年)30歳になる年の僕は、人生最悪の1年を迎えていた。昨年から続く自分的デフレスパイラルが全く止まらず、あまり吐かないはずの弱音が吐いても吐いてもポロポロと出てくるありさまだった。正直あまり書きたくない。それぐらい最悪の1年だった。けれど、振り返ってみればそれらすべては成長のための必要な試練だったのだと、ある程度克服した今なら言える。まーキツかった。心は何百回も折れた。それでも、色々なことを学ぶことにより、自分なんかよりはるかに大変な思いをした人が世の中にはゴマンといるということが分かっただけでも、なんか救われた気がした。自分がどんな状態にあったとしても、すくすく育つ娘は相変わらずすくすくと育っていて、日一日とはっきり成長が見て取れる桜木花道くんのごとく、日一日とはっきり成長を見せてくれた。とても辛い一年だったけれど、僕は一つの決意をした。よく、最愛の人を守るためには死んでもいい、とか、あるいは逆に死んでも守る、みたいな言い方をする。僕はそれをやめた。絶対に死なない。絶対に生きて、生き延びて、生き抜いて、娘の成長をきちんとこの目で見守る。幼稚園や小学校でボーイフレンドが出来て悲しい想いをすることもあるかもしれない。中学生ぐらいになって父親を避けるようになり、もうお風呂に入ってくれなくなるかもしれない。高校生ぐらいには絶対に嫌だけど彼氏なんてのが出来て、僕は毎日ストーカーしなければならないのかもしれない。その少し先には、絶対に歩きたくないバージンロードを、大声で泣きながら歩く機会も来るのかもしれない。父親としては経験したくないイベント満載なのだけれど、それでもその一つ一つを(残念ながら、そして不本意ながら)経験するまでは、絶対に生きる。絶対に世の中を平和に出来ると確信できるような笑顔を振りまいて、ときに小悪魔のように色々やらかす娘を見ながら、そしてくんくんにおいをかぎながら、僕は今後一生変えることのない決意をしたのだった。娘の手からは、今日もなぜかパンのにおいがする。それもバターロールみたいな。僕にとっては、一撃で疲労が回復する魔法のにおいだ。
時を同じくして、仕事面でも転機があった。僕は、4年のキャリアで初めてお客様を亡くした。知らせを受けたときには、頭が真っ白になった。いつかその日が来るとは分かっていたけれど、どこかで現実とは思ってはおらず、架空だと思っていた「万が一」が、本当になった。僕はその方(というよりはその「子」)がこの世を去ることになったいきさつを、後日ご家族に聞いた。心のどこかで信じられないでいたその現実が、最後のストーリーとともに耳に流れ込んできたときに、どばっと涙が溢れてきて止まらなくなった。自分の仕事の本当の重さを知り、伝えるメッセージの大切さを知り、人が本当に死ぬとはどういうことかを知った。この仕事を一生続けていこうと心に決めた。お預かりしている保険を、どういう形にしろ、いつかお返しするのが僕の役目だ。そこには、僕が今奥さんや娘に抱いている感情と何ひとつ変わらない想いが、込められているはずだから。
(2011年)31歳に2週間前になった。いまのところ、すべては回復傾向にある。北京原人から、ようやく人間になれるかどうかの瀬戸際まで来たようだ。相変わらずいろんなことが出来ない僕だけれど、出来ることも少しずつ増えてきている。奥さんに見つからないように娘に3000回ぐらい教え込んだ「Happy Birthday to You」は、僕の誕生日に娘の口から炸裂した。「パパだいちゅき」と、めんどくさそうに顔を背けながらも言ってくれるようになった。娘が風邪を引くとだいたい僕が病院に連れて行くので、パパは病院にいくための人、と思われ始めているようだ。将来へんな彼氏をつれてきても撃退できるように、極真空手を続けている。(目下原因不明の怪我で復帰できておらず)
奥さんからは「ハゲでデブでクサイのは嫌い」と常々言われているので、少なくとも二項目を満たすことがないように、もともと吸わないタバコに加え、お酒をやめた。髪の毛の心配はしばらくなさそうだ。
先輩から、「お前はプライドの塊だ」と言われたので、プライドを取り外す努力を一生懸命して成功した。
人へのアドバイスは、その人の将来を良くするものかどうか?を基準に、するようになった。今の感情を害することを避けるためだけに、妥協するようなことは言わない。
前例のないむちゃくちゃな転勤の際に拾ってくれた今のチームには、最大限の恩返しをしようと思って、自分が持っているノウハウをすべて放出している。
すでにいっぱしの年齢にはなってしまったけれど、いまの僕には足りないものがあと1024個ぐらいある。とりあえず半分ぐらいを今年中に埋めて、娘の寵愛を受けられる期間を少しでも長く延ばし、厳しい業界だけれどお客様のためになんとか生きていきたい。
10年間を簡単に振り返ってみたけれど、どれ一つとして欠かすことはできない、貴重な日々だった。
これからの日々も楽しみだ。そんなわけで今年もよろしくお願いいたします。
ここまで付き合っていただいた酔狂な皆さんに感謝!

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「ラオウを目指す羅王のブログ」にようこそ。修羅が蔓延る世紀末の日本を、「北斗剛掌派」という思想体系を以て変える活動をしています。我が生涯に一片の悔いなし!と言える人生を送るため、101回目のダイエットに励んでいます。