ラーメン二郎とアップルと人生 その1


最近、ラーメン二郎を解禁した。
東京に帰ってきてから2年間、支社からわずか15分程度の距離にあるにも関わらず、またテニスサークル時代のあのときのようにハマってしまうのが怖くて、敬遠していた。が、大人になったのでもう大丈夫と思い、久々に行ってみた。しかも1日空けてほぼ連チャンで。
噂は聞くけどラーメン二郎の詳細を良く知らないという諸氏のために、少しだけ解説しておこうと思う。どこに店があるとかの基本情報は、まぁ食べログでもご笑覧あれ。
まず商品カテゴリー。ラーメン二郎は『ラーメン』という字がついてはいるが、これは厳密にはラーメンではない、というのが、ラーメン二郎通の共通したプロとしての意見。『ラーメン』ではなく、『二郎』というカテゴリーが必要ということだ。つまり、『イタリアン』、『フレンチ』、『二郎』と並べても遜色ないような、一つの完成されたカテゴリーということ。それほど、二郎は存在感としてそのへんのラーメンとは別格なのだ。
営業妨害にならないようにもう少し解説したい。というかそもそも営業妨害につながるようなポイントが列挙できる先方に問題があるため、僕は悪くない。二郎はとにかく凄い。何が凄いかというと、凄いポイントは多岐に渡る。
(基本スペック)
味:カテゴリーが違うという説明はしたが、食べれば分かる。食べなければ一生分からない。百聞は一二郎に如かず。インド旅行と一緒で、二度と食べたくないか、二度と出てこれなくなるかの二択しかない。
店構え:基本汚い。本店は、記憶によるとハトが店内をウロつき、生まれたばかりの5期ちゃんの兄弟が何匹が歩いていた。
人気:半端ではない。常に行列。慶応義塾横三田本店では、授業をサボってまで並んでるとても優秀な学生がわんさかいる。
店主の親父:常に脂っこい。はいお待ち!の声もなくにカウンターに出てくるドンブリには、大体親父の親指が入っている。これも一つの隠し味と見ている。
量:普通の良く食べる女の子からプロレスラーまで楽しめるレベル。
おまけ:野菜、にんにく、油など、多少のトッピングはできるが、とりあえずメニューはラーメンしかない。トッピングの仕方も、誰も教えてくれないため、通い詰めて常連の技を盗むしかない。
(応用編)
店から出てくる人:食べ終わった人達は例外なく、達成感に満ち溢れた表情とともに、むはぁ〜、と深く不快な呼吸とともに店を出てくるので、うっかりその息を嗅いでしまうととてもイヤな気分になる。
本家と分家:三田が本店。僕のお気に入りの目黒店以外に、都内神奈川に数十店舗を展開している。何店舗か食べたが、基本的には本店が一番マズイ。こればっかりは不思議だ。普通な本店が一番レベルが高く、分家になるにしたがって味が落ちるので・・・なんてのが普通の店の問題点。二郎は逆で、本店から離れるほど味もよくなり、衛生状態もよくなるとかよくならないとか・・・。
体調との兼ね合い:常にトップレベルのアスリートとしての自覚と体調管理を求められる。そうでなければ、二郎を倒すことは基本できないと思ったほうがいい。経験上、本店は食べて20分で腹をくだす。目黒は40分もった。
(メニューとレベル)
1、小
基本中の基本。普通のラーメンの大盛りレベル。それでも体調がよく、おなかが空いていないと厳しいこともある。(ドラゴンボールのクリリンレベル。スラムダンクの三浦台高校レベル。)
2、小豚
ここから少し手ごわくなる。小では2枚だった豚が、確か4枚。しかも激厚で濃厚。気を抜くとやられるが、まだ慌てるレベルではない。一生懸命食べれば大の大人であればなんとかできるレベル。(ドラゴンボールのナッパレベル。スラムダンクの豊玉高校レベル)
3、小豚ダブル
大との区分けが難しいところではあるが、肉があるぶん、こちらの方が組しやすいとも言える。ただし肉の量がたぶん8枚と倍増するため、肉の波動に押し流される可能性はなくはない。(ドラゴンボールのフリーザレベル。スラムダンクの翔陽高校レベル)
4、大
ここからは少し才能が必要になる。努力ではどうにもならない壁が見える。圧倒的な麺の量。いつまでも変わらない味。場合によっては変化がない分、大豚よりもキツイかも。(ドラゴンボールのセル完全体レベル。スラムダンクの海南台附属高校レベル)
5、大豚
先日僕が調子に乗ってチャレンジし、10分後に敗北を悟った中上級編。ペース配分を間違えると、カサにかかったように攻めてくる。先日は野菜と肉を制覇したあとに押し寄せる麺の波に呑まれ、沈没。ラスト3口がどうしても口に入らず、ギブアップ。(ドラゴンボールの魔人ブウレベル。スラムダンクの大学オールスター選抜のような山王OBレベル。)
6、大豚ダブル
選ばれし者のみが挑戦を許される神の領域。そう、それはその場に立つことさえ、尋常ではない力量を求められる真の強者の聖域。小から始まる大豚への道のりは、この大豚を以ってラスボスとなるが、どうしても倒せない。
この大豚ダブルを食すことが出来る人間は、恐らく会社では頂点に立ち、事業では成功を収め、家庭では絶対的な幸せを手にすることが約束されている・・・と言いたいところだが、恐らく胃袋拡張過多になり、乗っているチャーシューのような体になり、加齢臭が二郎臭になるという、家族としては我慢できないお父さんになってしまう可能性が大ダブルなので、独身時の体を鍛えているときに限定した方が間違いなく良い。仮に体を徹底的に鍛えているスポーツの選手でも、大豚ダブルを食べている人とそうでない人には、前者に明らかなディスアドバンテージが発生するであろうことは間違いない。(ドラゴンボールのスーパーサイヤ人3レベル、スラムダンクの山王工業レベル)
7、大豚ダブル全増し
選ばれし者のみから構成される大豚ダブル制覇者から、さらにトップ5%の勇者のみが登頂を許されるまさにエベレスト、セイント的には聖衣(ゴッドクロス)の領域。もはやそこはゴールドセイントも、ブロンズセイントも、サープリスも、存在すらできず粉砕される神の楽園。アテナの血を得た聖衣を来た勇者、数千年の間存在する冥王ハーデスすらも恐れない勇者、愛する人を守りたい、世界の平和を守りたいとする勇者こそが、踏み入れることができる。前述の大豚ダブルに加え、野菜、にんにく、あぶらがまるで日本昔話のごはんのようにこんもり盛られ、もはや麺を探すだけで莫大な重量が箸にかかる。凡人では、麺に達した時点でギブアップ。周りで大食いを豪語する友人がいたら、連れて行ってみるといい。ほぼ確実に撃沈させることができると思う。
大豚ダブル全増しを制覇してしまった者は、次に何を食べればいいんだろう?と、しばし呆然とするという。しかし彼を満足させるような料理など、この世にはもうない。頂点を極めてしまった者が唯一抱える生涯の悩み。それが、頂点を極めてしまったということそのものにあるということが、なんとも言えない皮肉である。そんな彼も、挑戦することが一つある。連続防衛記録である。ボクシングと一緒で、タイトルを取ることより、タイトルを守り続けることのほうが10倍難しい。最良の体調の日も大豚ダブル全増しを食すことができ、最悪の体調の日も大豚ダブル全増しを食すことができ、さらに食し続けることで人間としての基本的な体調が維持できなくなってきてもなお大豚ダブル全増しを食し続けることができるか。これが頂点に立つ者の終わりなき挑戦である。(ドラゴンボールの悟飯吸収後の魔人ブウレベル、スラムダンクの何巻かに出ていた、牧、仙道、流川、赤木、神で構成されるドリームチームレベル)
僕はせいぜい大豚イケるかイケないかレベルだが、上記ランクから少しでも上位を目指すために、二郎を教えてくれた大学時代のサークルに代々伝わる方法を念のため伝えておく。
まず、二郎における最大のポイントは、『いかに早く、体が満腹を感じる前に食べ尽くすか』というスピード勝負が一つ、いま一つは、『どれだけ飽きずに突き進むことができるか』という脇目もふらない姿勢。
とにかく量に押し流されてギブアップすることが多いため、それをどのようにかわすか、ここに知恵を絞る必要がある。先輩から言われたことは二つ。『水を限界まで飲むな』と、『肉を先に倒せ』である。一つ目は分かる。しかし問題は二つ目。普通の感覚だと、肉はラーメンの味に彩りを添える素敵な存在。しかし二郎では違う。序盤は確かに味に彩りを添える素敵な存在なのだが、中盤を過ぎてまだ肉を残すと、とたんにラスボスの雰囲気丸出しに、こちらを追い詰めてくる。はぐれメタルだと思ってダラダラ攻めていたら、実はバラモスでメラゾーマの準備をしていた、というほど、急激に強敵に変わる。だから、不自然だけれど、序盤で肉を倒す必要がある。逆に野菜は最初に食べてしまうと、後で清涼剤となってくれる貴重な役割があるので、オススメしない。さらに、尋常ではない濃さであるにも関わらず、水を飲むことは歓迎されない。食すという目的のためにもオススメしないが、何よりも水をガブガブ飲んでると、『そんなに飲んでちゃ完食できないよ、素人さん』という周りの視線がグイグイ刺さってくる、これがツライ。雀荘に入り込んでしまった素人のごとく、とても居心地が悪い思いをすることになる。この二つさえ守れれば、少なくとも現状タイトルからワンランク登ることは、そう難しくはないだろう。しかしながら、大豚ダブル、大豚ダブル全増しレベルになるとその辺の基本は当然押さえてでの挑戦となるため、他の要素や才能が必要となってくるのは言うまでもない。
他に気をつけるべきポイントとして、親父の目線を見ながら注文をしないと、素人だと思われる、ぐずぐず食べていると怒られる、連れがいても、一切しゃべってはいけない、など、守らなければいけないルールは沢山ある。
ここまでして二郎を食べたいと思う狂った人だけが二郎に向かう。二郎はそれでもいい。それでこそ二郎だから。顧客側も、そんな二郎だからこそのファンが多くいる。
そしてここまで読んでしまった少し時間のやりくり上手な貴方のために、ようやく第二部でタイトルとの関連について書こうと思う。ここまではぜんぜんタイトルと関係ない、ただの二郎の説明になってしまったことはお詫びしたい。ちょっとばかし説明しとこうと思ったら、説明しなきゃいけないことが多すぎてかなりの分量になってしまった。ここまで説明させる二郎に完敗。

31歳になったので過去10年を振り返ってみました


久々の更新です。先日、おかげさまで無事31歳になりました。多くの方からメッセージをいただき、どれだけの人に支えられてきたのかを感じることができました、ありがとうございます。このブログの最大の目的である、「自分の思考の軌跡を残す」ことを最近してなかったので、とある尊敬する同年代の方のブログになぞらえて、少しこの10年を振り返ってみようと思います。なんでいきなりですます調がなくなるのか分かりませんが、このほうが色々飾らなくて済みそうなので、ぶっきらぼう編にしたいと思います。
(2001年)21歳の僕は、ただのアホだった。大学3年生になり、新たに入ったゼミがあまりにも楽しすぎ、それまでの真剣にテニス、真剣に極真空手、という生活から、真剣にビール、真剣にビール、たまにちょっとだけお勉強、というスタイルになってしまい、この頃から当たり前だけど筋肉は落ち、脂肪が増え、体内組成は大きく崩れさることとなった。週5回ぐらい、午後4時から飲み始め、朝4時ぐらいまで死にそうになりながら粘り続ける生活。日本の大学生は世の中で一番アホだと今でも思っているが、こんな生活で頭が良くなるわけがない。「大学」という名称も取り上げたいぐらいだ。中学とか高校に失礼だ。かわいい子が多いと評判のゼミで見事その術中にハマり、ゼミ以外の人たちと過ごした記憶が全くないほど、ゼミまみれだった。ちなみにこのとき同期だった子がその後自分の奥さんになるとは、つゆ思わず。。
(2002年)22歳の僕は、就職活動真っ最中だった。悲しいことに、同期のほとんどがもっていたであろう、「こういう業界でこういう仕事がしたい!」という夢のようなものは全くなく、ただただ初任給の高い会社を目指していた。初任給というとそこは外資金融、そして父親の勤めていた戦略系コンサルだったが、そこは僕らしい。外資金融は思いついた頃には採用がほとんどすべて終わっており、戦略系コンサルは頭が全くついていけず、ほとんど門前払いだった。最終まで行った某国内最大手証券の最後の面接のために、それまで進んでいた選考をすべて切り捨てていったものの、覚悟が伝わらずなんと落選。失意のどん底にいたときに何かの流れでぱっぱっぱっと進めたシスコシステムズに内定が決まった。確か6月まで決まらなかったので、結構どきどきしたと記憶している。
時を同じくして、同期からしつこく誘われていた一人旅についにデビュー。親日的と言われていたトルコ、そしてトルコ航空の無料往復のついていたエジプトに、はじめてたった一人で何も計画せずに突っ込んだ。また詳細は旅の話で書きたいと思うけれど、この旅で僕の人生観は、そしてその後の人生は間違いなく変わった。このときの旅のテーマは「優しさ」僕は、人に優しくできない自分に悩んでいた。正確には、優しくしたいのだけれど、優しくしている自分を見られるのが恥ずかしいというよく分からない理由で、人に優しくすることを拒んでいた、いま思えば本当によく分からない青春だった。大変なことだらけでとにかく大変だったけれど、とにかくこの旅は最高だった。このあとに行ったイタリア、メキシコ、ペルー、ボリビアもそれ以上に最高だった。旅は僕の人格形成のかなりの部分に寄与してくれたと、今でも思う。
(2003年)23歳の僕は、ついに就職した。転職した今振り返っても、世界最高の企業の一つではないかと真に思う。まず、オフィスがキレイ!そして飲み物がタダ!世界中どこでも自分の電話がとれる!外資系ITってのがカッコいい!初任給が高い!ほかの人はもっと高い!
上記のどれとして、この会社の本質を突いたものではないし、決して人生に重要なものではないと後になって気づくのだが、そうは言っても23歳の若造に見える会社の感想なんてものは、せいぜいこんなところだった。その偉大さに少しずつ気づき始めてた父親に、「シスコいいんじゃない?」と後押しされたのも、シスコに決めた理由の一つだった。
配属希望で、ずーっと東京で育ってきて一度も東京出てないのはなんかショボイ、と思いつき、一人暮らしわずか3ヶ月のくせに、愛知のT社担当希望を出したら見事通ってしまい、人生初の東京以外生活が決定。大変失礼なことに、東京以外に日本があると思っていなかった僕にとって、初めての「海外生活」となった。マナーすら知らない社会人一年目だから、学ばなければならないことはそれこそ腐るほどあった。同時に、社会人になる前に抱いていた偉大な夢が、少しずつ自分の中で現実とすり合わされ、等身大の目標に変わっていきはじめたのもこの頃だ。配属されたチームの方々は上司はじめ皆優しく、それゆえに甘ったれた社会人の先鋭となってしまった感はあるかもしれない。いい意味でも悪い意味でもかなり巨大な顧客を相手にしていたチームのため、会社の力の入れようも半端ではなく、あれよあれよというまに海外とのやり取りも担当させていただくことになった。
(2004年)24歳の僕は、社会人2年目になった。引き続き大きな顧客を相手に悪戦苦闘の毎日。いわゆる理想と現実のギャップに苦しみはじめていた。旅をしていた頃に誓った世界平和は何だったのか、世界に学校を作って、希望を持てない子供たちに夢を与えて、そんな自分に酔いしれながら、なんていう目標はほとんど吹き飛び、何をやっているのか分からない状態に。もっと自分は出来るはず、という自分への信頼と、現実的に何もできない社会人2年目の実力のギャップから行動停止に陥り、結局当たり前のことすらできずにだんだん堕落していくのが分かる日々。。精神状態はあまりよくなかったように思う。一生懸命働くことよりも大事な何か、成功に近い道がどこかにあるのではないか、そんな勘違いをしながら毎日過ごしていたと記憶している。そんなことは絶対にあり得ないのに。。。
(2005年)25歳の僕は、あまり仕事をしなかった。惰性の中で生きていることがはっきり分かり、チームとしても色々なトラブルが重なって、全員の状態が良くなかったと思う。その中でも、若さを盾に一人気を吐かなければいけないはずの歩兵の僕は、あっさりと波に飲まれて何も出来なくなっていった。ITの仕事はハマると出て来れなくなるほどのトラブルが発生することがままあり、いったい何のために仕事をしているのか、と根本的に疑問符がともってしまうようなよろしくない状態だった。英語もかなりしゃべれるようになって、捌ける仕事の量も増えてきたのだけれど、根本的なところで不満を抱えたままの状態だったので、いい仕事が出来るはずもない。
(2006年)26歳の僕は、決断をした。かねてから誘われていた今の会社に、「こんなすげー仕事があったのか!!??」と、これまたあまり深く考えずに、しかし当時としてはそれなりに考えて転職。自分としては、大切な人や大切なものを大切にしながら生きる、という当たり前のことをするために仕事をするのであって、それ以外は仕事の目的としては適切ではない、と断じてそれに適した仕事形態を選んだ。結果としてこの転職は大成功を修めるのだけれど、当時は正直ベースな話、「逃げ」もあったと思う。会社にいる人はあまりに頭が良すぎ、ついていけなくなりつつあった不安。本当に大切なものを本当に大切にしていない(ように当時は見えた)人たちと働いていることにより、自分もいつかそうなるのではないかという不安。夢が夢のままで終わりそうなのが、はっきりと分かりつつあった不安。色々な不安に対して正面からぶつからず、一度リセットしたくて逃げるように転職した、というのが、もしかしたら本当のところかもしれないと、今では思う。
同時に、彼女だった今の奥さんにプロポーズした。とある研修で、「失敗する人間は外側の人にいい顔をし、成功する人間は内側の、最も近くの人を大切にする」と言われたときに頭をハンマーで殴られたような衝撃に襲われ、そーだったのか!とその後の思考を一大転換。こんなに俺を心配してくれてる彼女すら幸せにできずに何が成功だ!と心の中で叫び、愛知だけどよろしいかとの了承を得た上でプロポーズ。シチュエーションを考えすぎて、プロポーズは感動的に演出できたのだけれど、そもそもそのときの僕の格好はパンツ一丁だった。
転職前に有給が残っていたので、インドに3週間旅に出た。これもまたいずれ書きたいけれど、まぁすごい国だった。インドへ発った二日後にあちらの新幹線が爆破され、200人以上の方が亡くなった。全然違うところにいた僕からすれば、ほとんど外国の事件の一つだったのだが、日本にいた親族および将来の「奥さん」は、かなりびびった様子。プロポーズ直後に死ぬとはどういうことだおい!と、非難ごうごうだった気がする。入社後も、インドでハエに舐められた傷口からの感染症らしき症状に苦しみ、足が腫れて歩けないし、常に微熱が続く毎日。保険営業のくせに保険に入れないようなアホな状態が続く。。
ラッキーもあり、成績上位者の入賞基準である社長杯に入賞。世の中には、本物の化け物がいるということに後に気づくことになるが、このときはまだ単に調子に乗っていただけだ。
(2007年)27歳の僕は、結婚した。正確には26歳9ヶ月での結婚。同期の中ではトップクラスに早かったように思うが、今でも良く決断したと思う。あっぱれ、その頃の僕。「どうしようもない僕に天使が降りてきた」という槇原さんの歌があるが、「どうしようもない僕に妻が降りてきて羽交い締めにしたけど最終的には自分で決断できたから自分で自分を褒めてやりたい」という歌を将来出したい。守るものがあるのとないのとでは、それこそ天と地ほどの差がある。このあたりから、僕はアウストラロピテクスではなく、ネアンデルタールあたりまで昇進したのではないだろうか。母親に3000g超の生まれた当時の僕の体重と同じ重さのクマのぬいぐるみをプレゼントしたときは、今までの人生で一番感謝した。
仕事も比較的順調で、社長杯は2年連続入賞を果たすことが出来た。話は前後して、7月に初年度入賞のお祝いにハワイに連れて行ってもらったのだけれど、あれほど苦労して入賞した社長杯に、8年、9年、10年と連続して入賞している先輩たちが、それこそゴロゴロいた。なんなんだこの世界は?と、化け物たちを前に、誇らしい気持ちどころか、恥ずかしい気持ちが湧いてきた。たかだか一回入賞したぐらいで自分をすごいと思い始めていた自分に対して、最大限にイラついた。自分より優れた人間が世の中ではいくらでもいる、ということを、思い知る機会が自身の成長にとってどれぐらい大切なものなのか、ということを気づくのにはあと数年かかるが、それでもこのときの社長杯は悔しくて悔しくて、一生忘れない。
(2008年)28歳の僕は、とてもfragileな成功への階段を登っていた。あとになってすべては実力ではなく、単に周りの人が作ってくれた仕組みに乗って要領よく立ち回っていただけということを思い知るのだけれど、当然のことながらその最中は全く気づかず。いや、十分に気づいてはいたのだけれど、見ないふりをしていたことは否めない。問題点が明確に分かっているのに見ない、先送りする、という日本政府と一緒だ。それでも年がら年中ご家族についての話をしているし、自分も家族を持っていたわけだから、少しずつ家族や愛というものについても、体感しながら理解していった気がする。この頃、僕はネアンデルタールから北京原人ぐらいまで昇格することができた。この仕事の厳しさを目の当たりにして3年目。僕が入社してから何十人と辞めていかざるを得なかったのは、その証左だろうけれど、成果をある程度出すことが当たり前のように求められる立場になりつつあるなかで、自分がそうなることは100%ないと思いはじめていた。ちなみにこの思い込みは、キレイに次の年に洗い流されることになる。
(2009年)29歳の僕は、奥さんからのプレッシャーにさらされていた。東京に帰りたい!東京に帰りたい!そりゃそうだ。念願の子供も授かり、もうすぐ産まれる、というのに、旦那が住んでいるのは縁もゆかりもない愛知県。知り合いもあまりいず、親も近くにいないため、相当な気苦労があったことと思う。でもね、でもね、僕には仕事があるんだよ、とダマしダマし延ばしてきた東京転勤が、喫緊の課題となった。結婚以上に悩んだと思う。結婚にはメリットしかなかったが、転勤はリスク以外の何者もなかったからだ。そもそもそういう制度がない。辞めろと言われる可能性もある。転勤できたとしても、仕事を続けていく仕組みがない。そういう絶望的な状況の中で、今の会社は最高の対応をしてくれた。何の文句も制限も設けずにあっさり前例のない転勤を認めてくれ、今の支社も僕を暖かく迎え入れてくれた。命をかけた転勤とほぼ同時期に、今度は奥さんが命をかけて最愛の愛娘をこの世に誕生させてくれた。こんなどうしようもない僕が親になるなんて、としんみり思いながら、僕や奥さんがいなければ一日たりとも生きられない小さな命を抱え、これから死ぬ気でがんばろうと決意した。
そうしたら本当に死にそうになった。何が原因かはまったくもって今もわからないけれど、体調が極度に悪化し、復活のきざしのきの字も見えないぐらい、苦しむ毎日がここから1年以上続いた。夜は寝れず、ゆえに昼はフラフラ、と思ってもまた夜は寝れず、次の日はもっとフラフラ。子育てで死にそうになっている奥さんと、原因不明で死にそうになっている僕。当然家庭状況は最悪だった。仕事の成果も出るはずがない。すくすくと成長していってくれる娘だけが心の支えだったけれど、そうはいっても娘ですらほんのわずかな支えとしか感じられないほど、僕は追いつめられていた。軽く三途の川が見えたと、リアルに思う。
そうして追いつめられて追いつめられて追いつめられると、少しだけ悟れることがでてくる。世の中にはどうしようもないことがいくつかは必ず存在し、自分の状態がもし仮にそうなのだとしたら、目の前の試練に対抗しようとすると、吹き飛ばされてしまう。そうではなく、まずその試練の存在を受け止め、受け入れることが大事なのだ。乙武さんが、天から与えられなかった手足に関して、もしあったら、という仮定では一切考えないのと一緒で、与えられた環境や試練を、そこに在ることは仕方ないものとして、そのあとどういう考え方や行動をして理想に近づけていくか、それが重要。粉砕できるレベルの試練は筋力で打ち砕くとしても、どうにもならない試練はまず受け入れる器が必要なのだ、そういうことに気づいた。それに気づいて以来、まずはどんな試練でも受け入れられるような器づくりに主眼を置いた学びをしている。そう考えると、日々経験することのすべてが器作りだし、試練はでかければでかいほど器を大きくしてくれる。試練の最中にそこまで悟るのはとても難しいのだけれど、2009年2010年という最悪の年を越える頃には、結構な悟りまで到達できたのではないかと思う。
(2010年)30歳になる年の僕は、人生最悪の1年を迎えていた。昨年から続く自分的デフレスパイラルが全く止まらず、あまり吐かないはずの弱音が吐いても吐いてもポロポロと出てくるありさまだった。正直あまり書きたくない。それぐらい最悪の1年だった。けれど、振り返ってみればそれらすべては成長のための必要な試練だったのだと、ある程度克服した今なら言える。まーキツかった。心は何百回も折れた。それでも、色々なことを学ぶことにより、自分なんかよりはるかに大変な思いをした人が世の中にはゴマンといるということが分かっただけでも、なんか救われた気がした。自分がどんな状態にあったとしても、すくすく育つ娘は相変わらずすくすくと育っていて、日一日とはっきり成長が見て取れる桜木花道くんのごとく、日一日とはっきり成長を見せてくれた。とても辛い一年だったけれど、僕は一つの決意をした。よく、最愛の人を守るためには死んでもいい、とか、あるいは逆に死んでも守る、みたいな言い方をする。僕はそれをやめた。絶対に死なない。絶対に生きて、生き延びて、生き抜いて、娘の成長をきちんとこの目で見守る。幼稚園や小学校でボーイフレンドが出来て悲しい想いをすることもあるかもしれない。中学生ぐらいになって父親を避けるようになり、もうお風呂に入ってくれなくなるかもしれない。高校生ぐらいには絶対に嫌だけど彼氏なんてのが出来て、僕は毎日ストーカーしなければならないのかもしれない。その少し先には、絶対に歩きたくないバージンロードを、大声で泣きながら歩く機会も来るのかもしれない。父親としては経験したくないイベント満載なのだけれど、それでもその一つ一つを(残念ながら、そして不本意ながら)経験するまでは、絶対に生きる。絶対に世の中を平和に出来ると確信できるような笑顔を振りまいて、ときに小悪魔のように色々やらかす娘を見ながら、そしてくんくんにおいをかぎながら、僕は今後一生変えることのない決意をしたのだった。娘の手からは、今日もなぜかパンのにおいがする。それもバターロールみたいな。僕にとっては、一撃で疲労が回復する魔法のにおいだ。
時を同じくして、仕事面でも転機があった。僕は、4年のキャリアで初めてお客様を亡くした。知らせを受けたときには、頭が真っ白になった。いつかその日が来るとは分かっていたけれど、どこかで現実とは思ってはおらず、架空だと思っていた「万が一」が、本当になった。僕はその方(というよりはその「子」)がこの世を去ることになったいきさつを、後日ご家族に聞いた。心のどこかで信じられないでいたその現実が、最後のストーリーとともに耳に流れ込んできたときに、どばっと涙が溢れてきて止まらなくなった。自分の仕事の本当の重さを知り、伝えるメッセージの大切さを知り、人が本当に死ぬとはどういうことかを知った。この仕事を一生続けていこうと心に決めた。お預かりしている保険を、どういう形にしろ、いつかお返しするのが僕の役目だ。そこには、僕が今奥さんや娘に抱いている感情と何ひとつ変わらない想いが、込められているはずだから。
(2011年)31歳に2週間前になった。いまのところ、すべては回復傾向にある。北京原人から、ようやく人間になれるかどうかの瀬戸際まで来たようだ。相変わらずいろんなことが出来ない僕だけれど、出来ることも少しずつ増えてきている。奥さんに見つからないように娘に3000回ぐらい教え込んだ「Happy Birthday to You」は、僕の誕生日に娘の口から炸裂した。「パパだいちゅき」と、めんどくさそうに顔を背けながらも言ってくれるようになった。娘が風邪を引くとだいたい僕が病院に連れて行くので、パパは病院にいくための人、と思われ始めているようだ。将来へんな彼氏をつれてきても撃退できるように、極真空手を続けている。(目下原因不明の怪我で復帰できておらず)
奥さんからは「ハゲでデブでクサイのは嫌い」と常々言われているので、少なくとも二項目を満たすことがないように、もともと吸わないタバコに加え、お酒をやめた。髪の毛の心配はしばらくなさそうだ。
先輩から、「お前はプライドの塊だ」と言われたので、プライドを取り外す努力を一生懸命して成功した。
人へのアドバイスは、その人の将来を良くするものかどうか?を基準に、するようになった。今の感情を害することを避けるためだけに、妥協するようなことは言わない。
前例のないむちゃくちゃな転勤の際に拾ってくれた今のチームには、最大限の恩返しをしようと思って、自分が持っているノウハウをすべて放出している。
すでにいっぱしの年齢にはなってしまったけれど、いまの僕には足りないものがあと1024個ぐらいある。とりあえず半分ぐらいを今年中に埋めて、娘の寵愛を受けられる期間を少しでも長く延ばし、厳しい業界だけれどお客様のためになんとか生きていきたい。
10年間を簡単に振り返ってみたけれど、どれ一つとして欠かすことはできない、貴重な日々だった。
これからの日々も楽しみだ。そんなわけで今年もよろしくお願いいたします。
ここまで付き合っていただいた酔狂な皆さんに感謝!