『アウトプットの重要性』を俺的にイメージしてみる


昔受験勉強をしていた時に、とにかくノートを取りまくっている人がいました。書いて書いて書きまくることで憶えるの!と言い張ってた人が大半だったように思います。ある先進的な教育をしている小学校では、先生が生徒に教えるのとは別に、成績の良い子が成績がこれからの子に教えるということが奨励されています。結果、成績がこれからの子は成績が上がり、成績の良い子は成績がもっと上がる、ということが起きています。何かを人から聞くのと、同じ内容を人に教えるのでは、格段に難易度の差があります。後者の方が断然難しいのです。
これらのことは私の人生の時々においても実際に起きたことです。いつもイメージしているのは、脳の記憶弁は出口付近についているのではないかということです。インプットの量は確かに能力にある程度は比例しますが、私自身がそうであるように、いくら詰め込んでもつるーーん、と時間の経過とともに忘れてしまいます。受験が非難されるのは、結局詰め込んだことが社会に出るとほとんど何一つ知識としては活きないからです。(もちろん、受験をくぐり抜けるという経験そのものは評価されてしかるべきだし、それは未来につながると確信しています。)
脳は入口から本体まで、小石すら落ちてないアウトバーンのような高速道路で出来ています。情報は勢いよく入ってくるのですが、本体を通り過ぎて、そのまま外へ出て行ってしまいます。全く混まない首都高が脳内になるので、渋滞とは無縁です。結果、何一つ記憶に残りません。
ところが、アウトプット、例えば学んだことを書く、聞いたことを人に教える、といったことをし始めると、脳の出口付近に弁が立ち始めます。高速で脳内を駆け巡った情報は、その弁にぶちあたり、脳内に堆積していきます。普通の交通渋滞なら困りものですが、ラッキーなことに、人間は脳の5%程度しか使っていないと言われています。私の知る限り最も人間の潜在能力=脳力をうまくつかっているケンシロウ君という方がいるのですが、彼も一子相伝の北斗神拳の使い手のわりに、潜在能力の80%程度しか使えていないようです。つまり、先々のキャパの問題はあるにしても、現段階では有り余るほど使える領域が余っています。
さらに、交通渋滞と違って更にラッキーなことに、脳内に情報が堆積していけば堆積していくほど、ある日突然化学反応が生じて、全く違う昇華された成果が生み出されることがあります。悟天とトランクスがフュージョンしてゴテンクスになったように、悟空とベジータがポタラで合体してベジットになったように(細かい話ですが、映画版では何故かゴジータになりました。)、全く異なる、しかしどこかで関連していた情報が突如として全くちがうひらめきを与えてくれることがあります。時間の経過を超えて、10年前に学んだことと今日学んだことががっちゃんこする、ということもよくあります。
ですので、よく言われている通り、インプットとアウトプットは10対0ではいけません。私のような凡人凡脳はつるーんと全てを忘れてしまいます。5対5が理想ですが、諸々考えると7対3ぐらいには持っていきたいなと。そうすると適度に脳の出口付近に弁がたち、残したい情報、未来につなげたい情報が当初混沌と、いずれ整然と堆積していくことになると思われます。
というわけでブログ書いてるんですが、今日のこの文章自体も、書いていて『へぇ、俺こんなこと考えてるんだ?』と意味もなく感心しながら書いています。20分ぐらいでちゃちゃっと書いているので、雑かつ簡素かつ軽薄な点はご容赦を。

引力に弱いのは人間もロケットも一緒


人が変わろうとするときには、その理由として、強烈な目指すべきロールモデルや具体的な超絶メリットを見つけた場合=プラスの伸長拡大、と、強烈に損失を避けたい、減殺したい場合=マイナスの回避があります。
この場合、例えばプラスの伸長拡大において、取れる行動を分類すると大きく三つ。そのうちの二つが
A.相当な代償を払ってとっても明るい未来を掴もうと動く。ただし成功の確率はそんなに高くない。
B.それなりの代償を払って、それなりの明るい未来を掴もうと動く。上記に比べるとかなり現実的に高い。
この場合はAとBを比べて、自分の器なんかを参考に、まぁ私ならビビりなのでBを選ぶかなと、そんなところです。多くの人もそうではないでしょうか。神に選ばれしやる気と才能を持った三木谷さんや柳井さんや孫さんや一時期のホリエモンなどは間違いなくAでしょう。成功の確率は自分でコントロールできる人たちでしょうから。
ただし、これが三つめの選択肢が現れることにより、一変します。
C.なにもしない。決断しないという決断をする。
Aのリスクは一番高く、100とします。でも得られる成果は1000です。Bのリスクはその半分の50で、リターンはリスクに見合った200とか300とかです。うーんどうっべかな〜などと話しながら、結局はBを選ぶ人が多いのでしょうか。ところがCは成功は当然0ですが、何もしないのでリスクも0です。ゼロです。Zeroです。下手をすると、Cを選ぶ人が一番多く、だいぶ離されてBが少々、そしてAはほとんど誰も選ばない、ということが起こり得ます。
人は時に、というか往々にして、今の痛みやイヤな気分を0にすることを最優先してしまい、多くの不合理な意思決定をします。私の例でいえば、ムキムキマチョメンになりたいのに今この瞬間にたべっこどうぶつを手にしていたりします。そして次に視野に入っているお菓子はチョコパイだったり。そしてさらにそれをコーラで流し込んでいたりと。。何故かといえば、『いままでそうだったから』です。
自動車では、0速から1速にするためだけに、そこから上の2〜4速ギアに引き上げる以上のガソリンが必要だと言われます。地球の引力を振り切ってロケットが飛び立つためには、秒速11.2km(時速
40,320km!)を超えるスピードがないと、なんと地上に逆戻りだそうです。人間は習慣の動物と言われますが、自動車やロケットと同様、何かを変えようとすると、マイナスはともかくとしてプラスの事柄であればあるほど、強烈な日常の引力に引っ張られます。そしてそれは多くの場合、痛みでありリスクであり不安であり不愉快なものです。
なので、多くの人にとって『C.何もしない』が正解になってしまう。とっても明るい未来や相応に明るい未来を捨ててでも、今の変化のない状態を選んでしまう。人間とは本来そんなものです。原始時代の話でも書きましたが、何もしないという選択は、移動や巣の変更が壊滅的打撃となりかねない時代だった頃の名残かもしれません。
というわけでCを選びがちな我々ですが、じゃあどうしたらいいかというと、まず上記ABCを知ること、そして、Cの『痛み、リスク、不安』を愛する努力をすることが未来につながると知ること、そして実際に『痛み、リスク、不安』を愛すること、さらに『痛み、リスク、不安』がないと生きていけない!という中毒状態になること、最後にその異常な状態を日常にしてしまうこと、ではないでしょうか。
ちょうどパーソナルトレーニングをやっている私ですが、筋肉痛のない日常などもはや考えられません。トレーニングをはじめた頃は、あんなに筋肉痛が億劫だったのに、今や体のどこかがギシギシいってないと、『俺すげーいまいちなんだけど!』と思ってしまいます。快適な状態が不快になるようになれば、そこのアナタもいっぱしのクレイジー野郎ですね!

行き当たりばったりな人たち


25歳頃から自己投資というものを初めて、学歴的には院にも行かずMBAも取らず学部止まりだけども、学習歴はだいぶ太く長くなってきました。
その中で多くの成功者と呼ばれる人たちを見てきて感じたことがあります。
その前に、よく言う『成功者』という言葉は日本語的には微妙なニュアンスが含まれる場合があるので、そっと訂正しておきます。多くの場合、成功者とは社会的に価値のある事業を創出していると同時に、当然お金を持っていて社会的地位も高く、いいタワーマンションに住んでいるといったイメージがありますが、そこにさらにぽっと出、短期的利益追求者、傲慢、守銭奴、競争主義者、といったややネガティブなイメージが含まれます。私がこれまで会った多くの成功者は、一部の例外を除いて成功者というより求道者といった表現のほうがしっくりくるような、ストイックな方が多かったです。とても謙虚でとても質素で、性格は明るく前向きで、一緒にいるだけでこちらの自己概念が上がる、そんな方が多かったです。
さてこの成功者、よく言われるのは理念を決めて目標をたてて計画を立案し妥協なく実行する、という一連のPDCAサイクルを回すことで成功に至った、と解説されることがあります。確かにそういう一面もあるでしょう。また、振り返ってみればそういう道をたどってきたということもあるでしょう。しかし実際、私が興味本位でインタビューしてきた方々の多くは、『行き当たりばったり』の方がほとんどでした。
『行き当たりばったり』とは、この場合、人生いろいろあるなかで、当初描いていたのと違うチャンスや縁がふっと湧いて目の前に立ちはだかったときにも、それを積極的に受け入れて与えられた場で全力を尽くす、ということを繰り返していくことを指します。ちょうど両サイドが壁に阻まれたマリオカートの直線コースのように、あっちへぶつかりこっちへぶつかりしながら、それでも目指すゴールへ、場合によっては目指してもいなかったゴールへたどり着く、そんな感じで成功していった方が非常に多いのです。
本日勉強会でお話を伺ったノムさんこと野村克也さんも、3歳で父親を亡くし、病気がちな母に楽をさせてあげるべく、お金を稼げる仕事を当初探していたといいます。俳優になろうとしたが自分の顔を見てこりゃ無理だと思って諦め、たまたま中三からはじめた野球がそこそこ出来たので、南海ホークスの練習生となり、血のにじむ努力の結果、3年でクビとの約束を跳ね返して正社員=1軍の切符を掴んだとそうです。そこから、選手兼監督兼4番という大業を経て、毎回毎回最下位のチームの監督を任せられて不死鳥のように甦らせるという偉業を繰り返したのです。何をどうしても計画的だったとは言い難いとのことでした。計画的だったのではなく、『全力的行き当たりばったり』だったのです。
今の私も、特に最近はこの『全力的行き当たりばったり』で動いていますが、どういうわけか、計画ばかり練っていた頃よりも、いろいろなことが動き出しています。お天道様はマリオカートのゴールをうっすら見せてくれているようです。明けない夜はないし、止まない雨はないということです。

ネオ化するAKB


AKBラオウへの道ブログ 本日のお題
『ネオ化するAKB』
人は容易に変われないが、人は必ず変わることができる、と言われています。つい最近もそんな経験をしたのですが、それはまるで、映画マトリックスで見たとある場面のようでした。
ご存知ない方のために少しだけ解説すると、マトリックスの世界というのは、現実と思い込んでいた世界が実は高度なコンピュータによって造り出されたギミックで、本当の現実は人間がコンピュータに支配され、人間が栄養として搾取されるえげつない世界だった、というものです。主人公ネオ(=キアヌ・リーブス)は、そんな中で人間をコンピュータから解放し、世界を救う救世主、だけど最初はショボショボで極めて弱く、そこから数々の試練を乗り越えて途中からめちゃめちゃ強くなり、ゆくゆくはコンピュータを倒していく、という至極単純なSF話を、少し複雑にしていろいろな含みを持たせた物語です。
今回僕が「自分が変われる!」と確信した経験というのは、言うならば、銃弾を受けて死にかけたネオが、恋人のキスをきっかけに目覚め、救世主としての隠された能力にも目覚め、造られた世の中の本当の姿がデジタル化されて見え、今まで全く敵わなかった強敵の攻撃を「無駄だ」とあっさり捌けるように突如なってしまった、そんな感覚です。いままでの自分という日常の引力は相変わらず強烈ですが、どこにどう手をいれればどう改善するか、ということを、パッパッとあたまの中で瞬時に計算できるようになりました。トライしていることは、うまくいくことがほとんどで、何故今まで手をつけてこなかったのだろうと、自己投資をはじめてからのこの7年を恨んでしまいそうになりましたが、その積み重ねの上に今回の学びが追加されて、初めて膨大な効果を生むことになるのだと自分を納得させています。
思えば、この「ネオ化」する経験というのは、今回に限らず、人生のいろいろな場面でフラッシュバックしていたように思います。
受験にエセ合格して大学に入学した時は、自分が大学で華々しいデビューを飾るであろうことが容易に想像できました。就職した時は、自分が圧倒的なサラリーマンか圧倒的な起業家になるであろうことは、簡単にイメージできました。結婚したり子供が生まれたときは、自分が確実に良い旦那やパパになるであろうことは、心の底から確信できました。結果、全て幻に終わったわけで、今こんななわけですが。。
プラスの出来事以外にも、マイナスの出来事からでも「ネオ化」する経験を得ることができました。フィジカルが調子悪く死にかけていたとき、それまでとは全く違う健康への感謝の心が湧いてきました。お金に困っていた時、それまでの幸運な人生に感謝しました。仕事で苦しんだ時は、苦しんでいなかったときの全てが有り難く思えました。
人生には、いろいろなタイミングで「ネオ化」する時期が訪れるのだと思います。そしてそのそれぞれで、それまでとは一変する世界が見えるのでしょう。今回もそれが起きていますが、要するに人の人生というのは、こういったパラダイムシフト何回あるいは何十回、人によっては何百回繰り返して、価値の螺旋階段を上がっていけるかというのが決め手のような気がしています。いつも、いつまでも同じ景色を見ているようでは、それは結局何も成長していない、というのと同じことなのでしょう。
子供の世界に広いと思っていた町並みが、大きくなって地元を訪れると小さミニチュアにしか見えないように、今見ている世界が全てではなく、これからいくらでも変えていくことができる、ということを体で理解できたのは、今いろいろと苦しんでいる私にとって、とても勇気の出るものでした。もうエージェントスミスは怖くありません。

AKBが好きな原始時代回想


AKBラオウへの道ブログ 本日のお題
『AKBが好きな原始時代回想』
昨日の話の続きです。人間はプラスの話よりマイナスの話に興味を持つ、確定していない噂でも流布する、ということを原始時代と結びつけて勝手に推測しました。そんな感じで、行動経済学などでも人間というのはそもそも不条理な生き物だということが言われていたり、日常でもあれれへんだぞと思うことがあったりすると、実は私はあたまの中でいつも原始時代を思い浮かべながら、いろいろなことに対して自分なりの解釈をしています。
要するに、人類20万年の歴史で脈々と受け継がれてきた、培われてきた、あるいは叩き込まれてきた本能や習慣というのが、たかが数百年の法治国家、民主主義、生活習慣などで覆るわけがないということです。覆るわけがないから、今の基準で見るととても不条理に見えることが色々あっても、実は20万年前の世界ではそれが生死を分けるほど重要だったことなんじゃないだろうか、と想像できるわけです。
例えば、合理的に見えるアメリカでもよく見られる、足の引っ張り合い。世界平和とか国益、という意味では共通しているはずなのに、民主党と共和党は大統領選の前は熾烈かつ卑劣なネガティブキャンペーンを張りまくります。『外資』と呼ばれる会社では、日本の会社に負けないぐらい、もしくはそれ以上の足の引っ張り合いがあるといいます。力を合わせればそれ以上の結果を生み出せるということは誰もがわかっているのに、意地とか見栄とか既得権とか主導権とか、みんな自分のイニシアチブを大事にして他者を攻撃します。これは、パイ=食糧が限られていた原始時代の名残ではないかと思っています。要するに、人が食べるということは自分が食べられない可能性を意味していたということです。だから邪魔する。20万年も邪魔し続けたので、いざ文明社会になっても、おいそれと他者を応援出来ないのです。
また、いつまでも決めない日本の政治。これはムラ社会において、変に飛び出た存在になると村八分になってしまう=ほとんど死、という状況があったために、決めないことが、変化しないことが最善と考えられていた時代の名残かと思います。せっかく目の前にエサがあるのに、わざわざ動いてそれを失うことを考えたら、次にいつありつけるかも分からないし、結局やめようよという話になるであろうことは想像に難くありません。ちなみにこれは更なる勝手な推測ですが、当時も決めないリスク、変化しないリスクはあったと思います。エサ場が枯渇しかけているとか。そして実際に枯渇して全滅の憂き目にあった部族などもいたかもしれません。それでも、生物全体としてみたときには、各地で動かなかい方を選択したことにより、全体としての生存率が上がった、だからそれがDNAとしてプログラミングされた、と、そういうことではないでしょうか。
そういうわけで、我々は原始時代から受け継いでいる生物としての生存本能が、今の飽食で安全で(日本のみだけど・・)清潔な状況になっても生きているため、全く実情に合わない意思決定をしてしまうことが往々にしてあるような気がします。そしてそれに無理やり逆らえた人だけが、自分の人生を勝ち取れる、という、ある種ダーウィンの法則に則った状況になろうとしています。
ただこの場合、20万年受け継いできた本能とはそういうものだと感じながら、それに従ったり抗ったりするのと、何も意識せずに唯々諾々と不経済な意思決定に従うのでは、雲泥の差があります。本能に対する抗い方は、今私が自分を実験台にしていろいろ試しているところなので、ゆくゆく発表していきたいと思います。いずれにせよ、まずはそういう認識を持つことが一番最初かと思います。飽食の時代に飢餓感をもってお菓子を食べまくっていた自分に嫌気がさし、禁煙ならぬ禁菓をはじめて一日目です。

復活宣言をしない復活


色々あってブログをまた書くことになりました。しかも今回は相当長く続く予定です。今まで早く再開しろ!とクレームもどきに背中を押していただいた皆様、有難うございました。
さて、復活にあたり、また色々迷っているため、ある日ですます調になったりいきなり断定調になったり、アツかったりサムかったりするかもしれませんが、そこはご容赦を。まだ混乱している最中であります。今回は決意したわけではなく、色々あって淡々と書くことを約束させられる結果となりました。ですので、色々あったことはおいおい書くとして、色々なことを書いていきたいと思います。
それではAKBラオウへの道ブログ 本日のお題
『トラが出たらしいという噂らしい』
夜に帰宅してからテレビを見なくなってから数ヶ月。これは睡眠時間の確保のためと、無駄な時間を削るためです。今期は特に自己投資に時間とお金と精神を費やしていて、その中でいつも推奨される方法を採ることにした次第です。
で、何故深夜のテレビは無駄か?それは、テレビに限って言えば眠いから、というのが正直な理由ですが、メディアは全般的にマイナスの情報が多く、テレビがその代表格だからです。ではもう一歩踏み込んで、何故メディアはマイナスな情報が多いのか?それは、人間がマイナスな情報を好きだからです。芸能人の誰誰が結婚した、という話題よりも、誰誰が離婚した、泥沼化した、という話題の方が圧倒的に放送時間が引っ張られます。多くの人は居酒屋で上司を褒めてるか貶してるかと言えば、恐らく後者でしょう。
じゃ何故そうなの?ということに関して原因を求めると、これは原始時代にまで遡ると推測されます。要するに、良い情報(=新たな木の実が見つかった、イノシシが見つかった)よりも、悪い情報(日本三丁目の村でトラが出たらしい、しかも村人全滅したらしい)のほうが、生存するにあたり圧倒的に重要だったからです。飢えの問題がある以上食べ物の新発見はとても喜ばしいことですが、出会ったら即死を意味するトラの情報は、その何倍も耳を開かせたことと思います。確定していない情報でも、圧倒的なスピードで人々の口を駆け巡ったことでしょう。そうしてトラの存在が嘘だったとしても、万一本当で鉢合わせるよりは数倍マシだったことと推測できます。
そんなわけで我々の遺伝子は良い情報より悪い情報に対して感度が高いのですが、今の時代、トラに食われることは私の知る限りあまりありません。ちょっとやそっと、悪い情報を聞きそびれたとしても、それが原因で死に直結してしまうということは、一部のレバレッジ利かせまくってるファンドマネージャーや、重い病気を抱えている方以外はあまり思い当たりません。そもそも何もしなくても悪い情報に耳をピンと立ててしまうのが人間なのに、それを集約して積極的に流してくるメディアに心奪われることは、何をどう考えても精神衛生上良くない、と言えるのではないでしょうか。
AKBの内紛問題が週刊誌に出てたりすると、思わず推しのこじはるが巻き込まれてしないかとハラハラしながら、読む価値のない週刊誌を思わず大人買いしてしまうAKBでした。