私の知るホスピタリティ三巨頭


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『私の知るホスピタリティ三巨頭』
いつもお読みいただき本当にありがとうございます。一期一会に感謝します。
せっかく年末に人様の会社の予算でディズニーに行って楽しい想いをしてきたので、学んだことを書いておきます。
私の知るホスピタリティ三巨頭は、
1、言わずと知れたディズニーランド
2、言わずと知れたリッツカールトン
3、言わずと知れてるわけではない、会社近くの中華屋さん
です。
そしてこれらに共通するのは、
①ついリピートしてしまう。
②ついアップセルを受け入れてしまう。
③徹底した非日常。
の3点です。
①のついリピートしてしまう、のは、経験した方なら分かると思いますが、勿論絶対的な面白さや心地よさや美味しさはある一方、底を見せない先方の器により、毎回何かしらの初体験があり、いわゆるマンネリをしません。ディズニーランドには常に新しいアトラクションがあり、リッツカールトンには毎回違う接客があり、会社近くの中華屋さんには毎回違うメニューが・・・ないのです。ないのですが、大物の雰囲気丸出しのかあちゃんや、やる気レスな娘さんとの会話がある種の玉手箱になっていて、毎回楽しませてくれます。
②のついアップせるを受け入れてしまう、については、少々説明が必要でしょう。ディズニーのスゴイところは、アトラクションだけでビジネスをしていないところです。キャラクターのグッズやお菓子やアクセサリーなども、きっちりビジネスになっている。というか、それがメインのビジネスになっているのではないでしょうか。6000円強の入園料を払って、出てくる頃には諭吉が3枚は飛んでいます。リッツカールトンでは、空きがあると部屋のアップグレードが出来ることもあります。それに味をしめると、次回からはそれなりの部屋になってしまいます。また、自分の望む通りの接客を受けることから、なか卯で食べれば300円で済む深夜のうどんが、リッツカールトンだと1500円になったりします。会社近くの中華屋では、うっかりしていると知らない料理が並んでいます。お店のかあちゃん曰く、『いいからいいから!作っちゃったんだから!』とのことですが、あとで確認したらきっちりチャージされていました。その盛りっぷりがあまりに自然なので、次の盛りを楽しみに店に行ってしまいます。
③の徹底した非日常について。ディズニーでは、一度入園すると、空以外の風景は見えません。また、航空機やヘリコプターなども通れないようになっています。大人も子供も来てくれた人がみんな、完全な非日常を味わえるようにするためです。ですから園内には、いくら美味しくても吉野家はありませんし、あるいはロブションもありません。料理も不自然なほど不自然な盛りつけです。キャスト全員が、『あなた』がこの園の主役であるように扱ってくれます。リッツカールトンは、高級ホテルなのにプライベートを満喫できるという、他の高級ホテルとは一線を画した非日常を味わえます。顧客の要望にノーと言わない、クレドを順守し、顧客にくつろぎを与えるといった行動指針から、そういったサービスを提供しています。会社近くの中華屋さんは、入った瞬間に中国の屋台街のような雰囲気です。30人ほどの客席が所狭しと並び、料理人はとうちゃん1人にも関わらず、恐ろしい勢いで料理が出てきます。かわいい娘さんはたまにノーメイクで、完全にやる気がないことを暗にアピールしています。
エピソード的にディズニーだけで良かった気がしますので、残り2つはここで打ち切りとします。
他に思いつくものとして素晴らしいなと思ったのは、ゴミが皆無なこと。ゴミ拾い専用のキャストがいるというのは有名な話ですが、本日は年末にしては異様に激しい雨。サボってもわからなそうなものですが、ずぶ濡れになりながらも、キャストの方が落ちているかどうかもわからないゴミを拾っていました。まさに、『神は細部に宿る』を地で行く素晴らしい活躍でした。
さらに、さすがは子供の楽しめるテーマパークといったところでしょうか。子供に対する接し方には目を見張るものがあります。まず、必ず親と同等に、子供にもきっちり話しかけます。通常は、ファミレスなどで見られるように、子供の方は意志の疎通も難しく適当にあしらってしまって親に話をするものですが、ディズニーの場合は、1人の人間として、子供に話をしてくれます。またその際、必ず膝を折って、子供と同じ目線で話をしてくれます。子供の方も安心して、しかしそもそも分かっていないため、適当な話をします(笑)
ディズニーランドは、単に自分が楽しむ場として行くのも勿論文字通り楽しいのですが、仕事やプライベートにおいて『どのように人を楽しませるか、その仕組みや心がけや細部を探る』というテーマで、そのエッセンスを探しにいくと、何倍も楽しめます。世界で一番、子供から大人までを楽しませているディズニーは、それを学ぶ者にとっても一番楽しい学びの場になります。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

毎日やる方が1週間に1回やるよりもラクなあんなことやこんなこと


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『毎日やる方が1週間に1回やるよりもラクなあんなことやこんなこと』
いつもお読みいただき本当にありがとうございます。一期一会に感謝します。
奥さんの会社ではなんと、今年からファミリーを招いてディズニーのホテルで一年のおつかれさま会をやってくれます。それに参加して、年末のこの忙しい時にゆったりゆったり何も考えずにアトラクションやキャラクターたちに囲まれる3日間を過ごしました。で、そこにブログだけは更新すべしとPCを持っていったのですが、あえなく電源を忘れ撃沈。ブログが1日滞ってしまいましたので、明日一気に2エントリ書きます。これで毎日ということにします。毎日ということにします。
さて、このたびブログを書きはじめたきっかけになったとある勉強会での講師の方の話。
『ブログとかメルマガってのはですね、2日に1回とか、1週間に1回とか書くよりも、毎日書くほうがラクなんですよ。だから僕毎日書いてるんです。』
・・・
・・・
はぁ?頭おかしいんちゃう?と思ったのは私だけではないはず・・
だって毎日書く方がネタにも困るし、時間取られるし、手疲れるし、絶対大変ジャナイデスカ。
今回残念ながらどうしても1日書くことができずに今日を迎えて、感じたことが1つ。
『めっちゃ書きづらい・・』
これは新たな発見です。これは、
『習慣の習慣化』に成功した後に、その『習慣の破壊』を行ってしまうと、その『習慣の再習慣化』はとてもエラい(名古屋弁で『大変だ!』の意)
という方程式に置き換えられます。
毎日歯を磨いている人が、何かの表紙に歯を磨かずに寝てしまったら、その後何日も磨かなくても平気なように、
毎日お風呂に入る人が、酔っ払って帰ってそのまま寝てしまったら、次の日からお風呂に入らなくても平気なように、
毎日トイレに行く人が、超忙しくてトイレに行く暇が全くなかったら、次の日から同じようにトイレ要らずになるように、
・・・
なわけはないですが、要するに、歯を磨くやお風呂に入るやトイレに行くなどの、
『完全習慣化』
されたものは多少の障害があっても、完全に習慣化されているわけですから、出来なかった事実は外部要因によるバグだという結論で済ますことができます。出来なくても、すぐにやれば良いわけです。
しかし、完全習慣化の前段階にある、『新規習慣化中』のモノに関しては、実は一度の機会を除くことによって、大幅に習慣の習慣化が後退します。講師の方がおっしゃった意味も、確かに物理的な時間や労力などの件はあるにしても、習慣化という見地からすれば、実は一日置くよりも一週間置くよりも、毎日行うことのほうが、その再スタートにかかるための気力や勢いや決意などの発動にかかるエンジンと燃料の量が少なくて済むということなのではないかと思います。
これは、発進して止まって、発進して止まってを繰り返すと燃費が悪く、時速40km程度の巡行速度で走った方がはるかにガソリンが保つ車の構造に似ています。私たちは大変意外なことに、一週間ごとにやることよりも、毎日やることのほうがラクなのです!
だからこそ何かを始める場合に、そしてそれが習慣化できれば自分の人生が上向くされていることが保証されていることの場合、それがダイエットにしろ勉強にしろ仕事にしろプライベートにしろ、とりあえず毎日行うということを自分に課すことが、結果的には一番ラクな道であるということは、知っておいて損はないことなのだろうと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

失敗のてへぺろ化ができた一年


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『失敗のてへぺろ化が出来た一年』
いつもお読みいただきありがとうございます。一期一会に感謝します。
昨日は仕事納めでした。お仕事やご相談を数多くいただくのは嬉しい限りなのですが、毎度のことながら最後の最後までバタバタで、反省しきりです。一年を振り返るのはまたゆっくりやるとして、今年一年間の目標として、いままでの人生で全く掲げることのなかった類の目標を、一つ掲げていました。それは、
『3倍失敗する』
ことです。
うまくいっている人生というのは、ほとんど全てにおいて、その基礎として膨大な失敗が積み重なっているものです。この場合の失敗は経験と呼べばとても気持ちがいいのですが、それが起きたその瞬間は、『失敗だぁ!』と思うことも少なくありません。そういう意味ではやはり時は失敗です。成功した野球選手で、素振り100本程度の人がいたら、見てみたいものですし既に伝説でしょう。トップ営業マンで、一度も断られたことがないという人がいたら、その人は一度もお客様を訪問したことがない方か、ホラ吹きかのどちらかでしょう。
私がまだ見たこともない何らかの天才であれば、一度も失敗せずに偉大なる境地へたどり着けるのかもしれませんが、少なくとも私自身はそういう人ではないし、しかし私なりに目指している境地へたどり着こうと思えば、単純に力をもっとつける必要があります。そしてその最短の方法は、もっともっと多くの経験値を積むこと、すなわち、その瞬間瞬間の『失敗』をきちんと積み重ねることです。
私は、こういってはなんですがあまり失敗したことがありません。小さな失敗は数知れずではないかと思いますが、あーここで踏み外したなと思うことはないのです。これは幸運にして最大の不幸だったのかなと思うことはしばしばですが、いままで、なんとなーくの人生を過ごしてきて、なんとなーくの結果を出してきて、なんとなーくの満足を得て、そしてなんとなーく今に至っています。失敗は成功のもととか、まずは一歩踏み出しなさいとか、若いうちにどんどん失敗しなさい、という言葉は耳にタコが出来るぐらい聞いてきましたが、それもほとんど聞き流していたのかもしれません。結果、失敗をあまり経験せずにここまできた私の人生は、私自身が一番分かっているぐらい、薄っぺらなものでした。
しかしここにきて、32歳にもなって、ようやく、いままでの失敗しないやり方での天井が見えてきたのか、それとも失敗しないやり方ばかりの自分に嫌気が刺したのか、はたまた魔が刺したのかはわかりませんが、今年のメインテーマとして、『3倍失敗する』を選びました。言った当初は気持ちよかったのですが、はっきり言ってビビリまくりでした。いままでの、失敗することに『失敗する』人生ではなく、失敗することに『成功する』人生を目指し、『うまく失敗できる=経験に変えられる』人間を目指し、一年間やってきました。
断られるのが怖い、仕事の話をするのが怖い、とりあえず怖い・・などなど、よくわからないビビリな性格が元々あったのか、失敗ということに関しては極端な官僚的思想を持っていたように思います。
が、一年間チャレンジしました。私、エライです。
で、結果ですが、うまくいきませんでした。これも初めてのことです。
しかし、失敗することそのものは、全く怖くなくなりました。だって、そもそも怖いものじゃなく失敗は楽しいものだったのですから。
言わばこれは、
『失敗のてへぺろ化』
とでも言うべき現象が自分の中で起こったのではないかと推測していますが、とにもかくにも、いままで必要以上に恐れていた失敗をバンバンすることにした結果、87kgのこの大柄な体で、
『また失敗しちゃった、てへ(ぺろ)』
というほど、失敗に慣れてきました。
あとは適宜ベクトルを修正しつつ進むだけ、という状態まで来られたこと、これが2012年の収穫でした。
来年はビジョン達成に全力で立ち向かう一年となりそうです。
一年間、ありがとうございました。また来年もお付き合いくださいませ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

小泉さんが首相を実感したとき


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『小泉さんが首相を実感したとき』
いつもありがとうございます。一期一会に感謝します。
リーダーシップというのは、会社のみならず、対家族でも対顧客でも、発揮することが一人一人に求められる時代になってきています。てなことでよくリーダーシップについて考えるのですが、リーダーシップの本質というのは、私の定義では、『無知無理解誤解偏見勘違いとのガチンコの戦いおよびそれらに対する正面突破のプロセス』であると考えています。それは例えるならば次のような話です。
大海原で航海をしているワンピース風な船があります。凪の時はいいのですが、次第に海が荒れてきます。船の何倍もあるような波が次々襲ってくるような、そんな嵐に見舞われます。船長以下全員、船員は力を合わせてこの難局を乗り切らなければ、海の藻屑となってしまう可能性大です。
何度目かのピンチを凌いだあと、とりわけ大きな波が襲ってきます。しかも3方向から。逃げ道は一箇所しかありません。しかし船長が示す方向は、一見他の船員から見ると一番危険な航路です。波が潰れるところを狙うようなとても危険な薫りのする道です。転覆するかもしれないし座礁するかもしれないし、全員ガクガクブルブルです。船員の中で最上層の先任参謀は叫びます。
『船長!この方向じゃ、船が転覆しちまう!!』
船長は船員たちがそう考えていることは分かっています。分かっていますが、過去の膨大な量の航海記録を読破したことや他の船長たちへのインタビュー、そして自身の潤沢な経験から、この一見危険に見える道こそが、3方向から大波が押し寄せる『トライデントウェイブ』と呼ばれる海の化け物から脱出するための唯一の方法であることもまたよく知っています。だから船員の言葉に耳を貸さず、求める結果=生存に向けて突っ走ります。
ところが、そんな時に、先任参謀の強烈な反対にあった船長が、
『そ、そうか、みんな反対なんだな。こっちの方が安全そうに確かに見えるからこっちにしようか。』
とか、
『みんなの意見を聞くのが船長というものだ。意見をありがとう、じゃあそうしようか。どう思う?』
という、驚くべき愚策を採ったとすると、その船は沈みます。破滅への道は、時に最も易しく優しく、甘く見えるものです。実はこのトライデントウェイブは、一見波がおとなしそうに見える道が、ある瞬間に急激に膨れ上がり、中の船をぺしゃんこにしたりします。船長はそれを経験的に知っていたために、反対に実は一番突破の可能性のある道を選ぼうとしましたが、先任参謀はじめ船員たちの意見に負けて、船を危険にさらします。
船長は、だからこそ孤独に耐えて、他の船員たちが見えないものを見通し、しかもそれを周りの大多数が理解できておらず反対されまくっている状況においても、実行する強さが求められます。
話変わって、以前小泉元首相が、首相就任のしばらく後に、インタビューで『どんなときに一国の首相になったことを実感しますか?』と聞かれたことあるそうです。
小泉さんは『うーん・・・』とひと呼吸おいた後に、
『何をやっても批判されるようになったときかな』
と答えました。今の日本のように問題が山積みな、いや日本でなくても問題は山積みなのですが、国を引っ張ってより良い方向に向けるために、場合によっては正しいことでもそれが誰かの既得権を侵すがゆえに、自分以外の全員から強烈な反対をされることもあります。それが仮に正しい道だとしても、多くの場合は邪魔が入ります。間違った道でも、自分以外からの圧力がかかることもあります。
そんな中で自分の軸を保ち、周りに自分の意見と方向性を伝え、実際の行動に導いていくというのは、とても勇気と根気と体力の要ることです。まさに、
『無知無理解誤解偏見勘違いとのガチンコの戦いおよびそれらに対する正面突破のプロセス』
であると言えます。リーダーとは、ラクなものではなく、必ず批判されるものであり、リーダーシップとは、そのリーダーのあるべき姿、備えているべき力とでも言えるでしょう。
考えてみれば、私が携わっている保険の仕事も、、『無知無理解誤解偏見勘違いとのガチンコの戦いおよびそれらに対する正面突破のプロセス』そのものであると言えます。自分の仕事は営業ではなくて啓蒙なのではないかとよく感じるのですが、恐らくこういったことが原因なのかもしれません。このあたりのお話はまた思いついたら書きたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

百聞は一験に如かず その3


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『百聞は一験に如かず その3』
いつもありがとうございます。一期一会に感謝します。
先日、二日連続で『百聞は一験に如かず』ということについてお伝えさせていただきました。今日は最終話です。
その前にちょっと空手の『下段蹴り』という技について説明させていただきます。まずは効用から。
下段蹴りというのは、空手の基本中の基本の技で、中段蹴り(ミドルキック)や上段蹴り(ハイキック)のような花形と違い、K1でも特に注目されることが少ない地味な技ですが、その競技をやっている者にとっては、一番大事な技となります。(余談ですが、素晴らしい中段蹴りを、私は個人的に『ナイスミドル』と呼んでいます。)基本的には短期勝負に見えて持久戦なので、後半になればなるほど、前半に受けたダメージが蓄積してきます。そしてそれは、上半身よりもむしろ酸素消費量の多い下半身にきます。息が切れてきても、突きは打てますが蹴りに関しては足が上がらなくなります。蹴りを一発放つだけではぁはぁ言ってしまうのですが、蹴りを放たないと決定打になりにくいため、初級者同士の戦いだと最終的には小学生のケンカみたいになります。
ここで、下段蹴りについて、極真における代表的な蹴り方をご案内します。
『まず、膝を腰の高さまで抱え上げます。気持ち的には、ベルトをしたとして、その上まで膝がきて、さらにその膝と並行に足のつま先が倒れる感じです。次に、相手の膝に対して、下段蹴りですが上からといったニュアンスで90度の角度になるように打ち込みます。その際、下から蹴りを上げるとガードされやすくスネを故障しやすいので、必ず上から振り下ろすように行います。このとき、膝が伸びきる直前で相手の腿に差し込むのがポイントで、次に当たったその瞬間に軸足を返し、若干腰をひねりながら相手に当たった足をめり込ませます。軸足は、蹴りを放つ時に浮き上がりがちなのですがぐっと我慢し、むしろ沈み込むようなイメージで軸を決めます。最後に、蹴りを放ったのと同じ軌道で戻し、何事もなかったように元の姿勢に戻ります。』
以上です。。。
いかがでしょうか?
よく分かった人は天才です。もしくは恐らく同業者でしょう。
よく分からなかった人はごく普通の方です。そんなもんです。
ちなみに、上記程度のことは、上記の文章を1万回読むよりも、道場で100回蹴りを放てば、ほとんど意味が理解でき習得できます。これが『一験』です。ぐだぐだ言ってないでミットを蹴ってみろ、そういうことです。
ゴルフが大好きで上手くなりたいのにゴルフ雑誌ばかり読んでいてゴルフを実際にしない人がいたり、痩せたいのに痩せる本ばかり見ながらお菓子を食べてる人がいたりすると、私たちは『言ってることとやってることちゃうやん、言行不一致やん』とほとんどの確率で言い当てることができます。
しかしこれが実生活となると、仕事となるとどうでしょうか。要するに教科書を読んでばかりで批評ばかりしていて、実践や実戦をしない人というのは、インターネットのこの時代、実はかなりいます。頭が良く見えるので発言も最もらしく聞こえるのですが、概して成果に無縁です。私もよくやってしまうのですが、やったこともないことを、さも論理的かのように出来ないものとしてシミュレーションしてしまうこともあります。すると、わずか10%の可能性が残されていた事柄の、成功する確率は結局ゼロになります。これはとてももったいない。
ゴルフやダイエットもそうですが、結局のところ、単純なようで大切なことに、『やるしかない』のです。私のようなアホでも、100回も200回も積み重ねていけば、大抵のことは覚えられますし、磨きをかけることもできます。
2012年のサブタイトルは、『3倍失敗する!』でした。恐らく平均すると、過去の2倍は失敗した1年だったかなと思います。それだけ実践に励んだ証拠です。が、来年は『5倍失敗する!』をメインタイトルに据えたいと思います。失敗するほどの前のめりでしか味わえない成長を今感じているので、コレってそれに気づいてしまうとやめられないものです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

ウサギとカメが登っている階段の違い


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『ウサギとカメが登っている階段の違い』
いつもありがとうございます。一期一会に感謝します。
過去にない自己投資ブームですが、世の中には、学んだことをすぐに成果に変えることが出来る人と、ちょっと成果までの距離が遠くて遅くて足踏みな人がいることが分かります。ちなみに、私は圧倒的に後者です。前者になりたい後者です。前者に憧れ続けている後者です。でもどうやら後者のようです。これは自分が一番よく分かっていて、結構苦しんでいたりもします。
たまに出逢うのですが、私が受講している勉強会などにたった1回出ただけで、『こいつ変わるな』と思わせる変化を見せ、そして実際に変わっていく人がいたりします。あるいは、そもそもセミナーや勉強会になんか出ずとも、日々の生活が学びになっているのか、誰も師匠とせずに階段を駆け上がっていくスゴイ人もいます。ウサギかカメかと言えば、ウサギ型の人です。私はこういうタイプでは残念ながらありません。
私は、というか、自己弁護のためにも言うと、恐らくほとんどの方はカメ型なのではないでしょうか。変わりたいけど変われない。どうやっていいかわからない。やる気になることはあっても続かない・・・みんな同じ悩みを抱えていると信じてます、はい。
最近気づいたことがあります。ウサギとカメでは、登っている階段の種類が違うのではないかと。(ここでいうウサギは、サボらないうさぎとします。)
ウサギは、階段を一直線に登っていきますし、そもそも階段自体が一直線です。だから、一歩登れば一歩上がることができます。人から見ても、『あーあいつ階段登っとるわ』とか、『またあいつ5段登りよったわ、やるな〜』とか分かります。
ところがカメはどうかというと、不思議なことに、階段の上から見ていると同じところをぐるぐる回っているようにしか見えません。カメにとっての成長の階段は、『螺旋階段』だからです。よくスパイもので出てくる巨大な螺旋階段を思い浮かべていただくとわかりますが、例えば100階ぐらいから1階のカメを見ると、そもそも歩みが遅い上に、同じところをぐるぐる回っているようにしか見えません。しかも、当のカメ本亀も、一生懸命登っているにも関わらず、何故かしばらくすると、外の景色がまた同じに見えてきます。これはとても不安になります。上から見ている方も、ぐるぐる回りながら登っている本人も、登っていることそのこと自体にあまり認識がなく、途中でやーめた、と歩みを止めてしまうこともしばしばです。
こんなときは、上から見ている側としては、真上からではなく、ちょっと斜めから視点を変えて見てあげる必要があります。そうすると、カメが登っているのは螺旋階段であって、しかも着実に高さを稼いでいることがわかります。また、登っているカメ本亀としても、1階や2階上がった程度では大して景色の違いを感じることはできませんが、諦めずにまたぐるぐると登って行けば、さすがに1階と10階で景色が違うことに気づきます。また、ふと下を見ると、自分が時間をかけて登ってきた階段の量が、いかに多かったかにも気づきます。上から見ているカメも、ぐるぐる苦しみながら登っているカメも、どっちも自亀(自分)です。
ここから何が導きだせるかというと、ウサギ型かカメ型かによって、人の成長には見え方が違うということです。あるいはそのスピードには現実問題として、残念ながらやはり差があるということです。そして何より幸運なことに、誰でも成長はしているということです。それは、成長というものをどういう視点で見るかによって、違うということです。成果が出ていないように見えても、同じ景色をぐるぐる見ているような気がしていても、それは、上から見ていればそう見えていたとしても、ちょっと斜めから見ると、実は一階一階ちゃんと登ってきている。
『また同じミスしちゃった、何してんだろ何回も何回も』とか、『あ〜また変われなかったな今回も』とか、反省する必要はあっても、凹む必要はありません。正当かつ方向性の正しい努力をしていれば、それがウサギ型かカメ型かの違いはあるものの、着実に前進を意味します。正当だけど方向性の誤った努力とか、そもそも正当じゃない努力とか、そういうものであれば報われる可能性は少ないかもしれませんが、そんな程度のことは、学びを深めていくなかで、いくらでも修正することができます。ただ、歩みが遅いことについては、自分なりに考えた結果、カメ型の評価を自分にしてあげることによって、爆発力はなくても、継続力のあるパワーが生まれてくる、そんな気がしています。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

百聞は一験に如かず その2


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『百聞は一験に如かず その2』
昨日のエントリで書いた、『百聞は一験に如かず』に関する考察の続きです。
一般に、子供の成長率が早く高く、大人になればなるほど成長率が遅く低く、あるいは低減するというのは、ある意味体の成長以外の要因に関しても納得できるところがあります。算数が少しできればわかることですが、百聞は一験に如かず、とは、数式で表すとすると
百聞<一験
となります。
うちの娘に代表されるように、何も考えずに一験をガチンコで毎日繰り返している子供と、百聞ばかりの大人では、絶対的な積み重ねにまだまだ差があるとしても、成長率という意味では、圧倒的な差が生じます。なぜなら、百聞は一験に勝てないからです。
そもそも、生まれてから3歳頃までは、『聞』の能力すらないわけなので、割合としては、
聞0%VS験100%
になります。とりあえず何も分からないので、あらゆるものを舐めてみたり、触ってみたり、それで痛い目を見たり、色々するわけです。験100 %の純度ですから、いやがおうにも成長しまくります。
そこから少しずつ言葉を覚えて、3〜6歳頃になると、
『聞10%VS験90%』
ぐらいになります。親の言うことを理解しはじめ、コミュニケーションが活発になってきます。この頃から、親からの情報により、やっていいこととやってはいけないことが、『それを行う前から』事前情報として手に入れられるようになります。0歳から1歳は劇的に変わりますが、それは恐らく5歳〜6歳の時の差と同様素晴らしくて、しかし少しかつ確実により大きな成長を遂げていることでしょう。
小学生になると、
『聞30%VS験70%』
ぐらいになります。社会のルールが学校内でも出てくる一方、落ちるかもしれない木登りをしたり、あまりやったことのない勉強というものを集団で長時間取り組んだり、一見あまり能力開発に関係のない科目が増えてきたり、放課後にドッジボールやどろけいで遊び狂ったりと、知識と活動のバランスの中で、理性などほぼなしに暴れまくります。それでもある程度の分別はあります。
少し時間は経って高校生大学生になる頃には、これが逆転し、
『聞60%験40%』
となり、だいぶ『聞き分け』が良くなります。特にデジタルネイティブ世代の今の若い人たちは、この年齢になると膨大な量の情報にアクセスするリテラシーを、かなりの割合で持っています。○○らしい、という言葉を積極的に使うことによって、自分がソースを特定していないことのリスクを転嫁し、何が本質かどうかを二の次以降においた意思決定やコミュニケーションが取られることになります。
新卒、中堅を経て、30代〜40代になる頃には、家庭や子供を持っている人が大多数で、そしてその社会的地位ゆえ、大体のことは人に聞いたり調べればなんとかなります。
割合としては、
『聞70%験30%』
ぐらいでしょうか。もはや、チャレンジを新しくする、趣味を増やす、新しい人脈をつくる、などの活動は、やや億劫になってくる歳かもしれません。そろそろ人間として『つまらない』人と『つまる』人に分かれる頃です。
もう少し時が経つと、人は50代や60代を迎えます。人生で手に入れるもののほぼ全ての総量は、この時期には大抵決まっています。孫さんや柳井さんのような逓増型の化物もいるにはいますが、大方は
『聞95験5%』
しかもこの5%は、退職後の囲碁将棋、ゲートボールといった、画一的趣味になったります。
昔、ある人が会社で先輩に怒られたそうです。議論をしている中で青臭いセリフを吐いてしまい、それについて怒られたとのこと。そのあとがシリアスなのに少しため息まじりで笑えます。
『いいか、経験を積むにつれてな、何をしていいか、何をしちゃいけないかが分かってくる。お前もいつまでも青臭いことを言ってないで大人になれ。負う必要のないリスクは負わなくていいし、今の仕事が全てじゃない。担当だって数年すればすぐ変わる。これからの時代、アツくなりすぎないことが生き残る秘訣だ。理想と現実の狭間に揺れながら、夢だと思っていたものに一つ一つ区切りをつけて諦めながら階段を昇る、大人になるってのはそういうことだろうが!!』
これで大人になりたいと子供が思えてしまうような国であれば、そんな国家は滅びるでしょう。大人になるって、小さい頃はもっと夢のある話だったような気がしますし、人生は歳とともに逓増していくものだと思っていますが違いましたっけ??成長というものは、人から聞いた話、どこかに書いてあった話ではなく、自分で経験したことがその大きさと傾きを決めるということは、これまでもこれからも大切に心に留めておきたいことの一つです。

百聞は○○に如かず


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『百聞は○○に如かず』
人の学習には、いくつかの段階があります。私が座右の銘にしているのは、『知る、分かる、行う、できる、分かち合う』です。
知る:知ってるけど知ってるだけ。
分かる:知ってるよりはマシだけど分かってるだけ。
------------------------------–(ココに分厚い壁)
行う:とりあえずやる。でも出来るかは別。
できる:できるようになる。
------------------------------–(ココに分厚い壁)
分かち合う:出来るようになったことを理論的体系的に人に伝える。
このように5段階に分かれ、レベルで括ると3段階に分かれます。理解→実践→共有、と言い換えてもいいかもしれません。
今の時代、知ろうとして知ることが出来ない情報というのは、軍事、製品開発、ちゃんとした個人情報など極秘系のものに限られます。この種の日常には役立たないため知る必要のないことを除けば、生活に必要な知識というのは、インターネットや他人の力を借りれば、非常に多くの知識を得ることができます。そういう意味では、誰もがいろんなことについて『知っている、分かっている』状態であると言えます。
しかし、それを『行う、できる』の段階まで引き上げるのには、実は非常な労力がかかります。何故ならば大体において何かに取り組んだときに、うまくいく確率とそうでない確率は、およそ1対9だからです。経営の神様に近い位置にいるユニクロ柳井社長の著書も、タイトルは『一勝九敗』ですし、私が尊敬する多くの先輩たちも、そんな人たちですら、新しいことに取り組むと10%程度しか成功させられないといいます。そうなると、ネット上に出てくる情報は、やはり成功談が10%、失敗談が90%になります。正比例ではなく、二次関数的に係数がかかるとすると、成功談は失敗談に押されに押されて、ほとんど出てこないか、もしくはとても怪しげな宗教商法のような文章の羅列にならざるを得ません。
人間というのは、未来が見えないことも不安ですが、しっかりと見えてしまうことに対してもまたとても不安を感じます。
『行う、できる』の前に、『知る、分かる』の段階でインターネットによる情報を手に入れた結果、『大体うまくいってないらしい』との情報が手に入ると、じゃあやめよう、となり、『行う、できる』の段階には必然的に足を踏み入れるのをやめる、という結論になります。
あるいは、『行う』ことまでいったとしても、成長には踊り場が必ず存在するため、ビギナーズラックで最初快感を得たあとは、『できる』ようになるまでに、一定期間、ストレスに耐えなければなりません。それもインターネットに書いてあった情報を参考にすると、どうやらうまくいかないらしいため、やっぱりじゃあやめよう、となります。
ただ、最近思うのは、やはり理解だけしているものと、実践しているものとには、大きな違いが、というか次元の違いすら感じます。私も私でここ数ヶ月新たなチャレンジをしているのですが、やっていることは、全て知っていたことです。しかしやっていなかった。ずーっと『知る、分かる』だけ続けてきて、当たり前ですがそれでは成果が出ないので、ついに『行う』フェーズに移行したわけです。するとどうなったか。
うまくいきません。
しかし、得た経験値は、『知る、分かる』を何十回繰り返していた頃よりも、段違いに自分の優れているところ、足りないところ、これからの進むべき方向性が見えました。これは言うなれば、
『百聞は一験に如かず』と言えます。
いや、
『千聞は一験に如かず』というほどかもしれません。
特に経験しなくても色々なことを『知って分かる』ことが出来てしまう世の中ですが、だからこそ、そこに対して実践をきちんとしていく人間は、他の人が得られない果実を得ることが出来るのではないでしょうか。メディアの発達で、批評家や評論家という存在が周りに増えている中で、自分はそれに流されずに、『行う、できる』までは興味を持ったことにチャレンジし、その上位概念である『分かち合う』のレベルまで行きたいものだと、強く思います。平たい話、リッツカールトンの本を100冊読んで、そのホスピタリティに想いを馳せるよりは、とりあえず一泊でいいから泊まってみろゴルァ!!!というはなしです。

羅王が20分でブログを書いてる理由


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『羅王が20分でブログを書いてる理由』
しつこいようですが、ブログを開始してかれこれなんだかんだで一ヶ月経ってしまいました。心がけていることは3つだけです。
①毎日書きアップする。
②20分程度で書く。1時間は間違ってもかけない。
③自分の備忘録兼、誰かの何かしらの気づきになるようなことを書く(極端な話、宝クジを買うなどの日常の話からでも教訓を得る)
全部大切なのですが、今この文章を書くにあたって特に意識しているのは、②です。改めて問いたいと思います。私は何故20分でブログを書くのか?
これは、実は日々自己省察能力、表現力、文章力、その他○○力の身体測定を毎日行うためです。子供が柱にギザギザをつけながら、自分の成長を実感するのと同じ感じです。勿論、子供の成長と違い、ピーターパン症候群なだけの私の成長は、日々身長が伸びるというわけにはいきませんが・・・
20分でそれなりの量の文章を書くということをよく考えると、これは瞬発力を毎日試しているということになります。そしてこれは、即ち現時点での実力だと思っています。芸人にしろパフォーマーにしろ、その辺に集まった人に対して、『はい、じゃ今ネタやって』とプロデューサーに言われてその瞬間に出来るもの、これが実力です。20分でブログを書くということは、上記に挙げた①〜③を満たすように指向しながらスピードを要求されますので、良い意味でも悪い意味でも、私の現時点での実力が露わになってしまいます。
これが2時間かけてもいいよ、毎日書かなくてもいいよ、ということであれば、結構カンタンです。何故ならば、③さえ満たせばいいので、色々な文献を当たることもできますし、何度も何度も推敲することができます。人の反応を見ながら微調整し、一晩経ったら見直してみて、それでやっとはいできました!ということであれば、そんなに構える必要はありません。軍隊でも仕事でも、『巧遅』より『拙速』を目指しなさい、と言われるなか、そのプラスの最大公約数である『巧速』を目指すからこそ、より良いものが生まれてきます。
昔あるセミナーでカリスマ講師がこう叫んでいたのを思い出します。私の大好きな、一部の人がキライな、自己啓発系のセミナーです。
『いいですか皆さん、これからとても大事なことを言います。いいですか?いいですか?』
と異様に長い前置きのあとに、
『人間ていうのはですね・・・』
特有の間でまだ引っ張る・・・
『人間ていうのはですね・・・』
『ふぅ〜、こぉぉぉぉ・・・(意味分からない深呼吸)』
『出来ることしか出来ないんです!』
・・・
・・・
私はどんな感想を持ったか?
『すげぇ、その通りだ。』と思いました。
考えてみればその通りです。50kgのバーベルしか持ち上げられない人は、100kgは無理です。赤ん坊に微分積分を解けというのも、私に100m5秒で走れというのも、無理。人間、出来ることしか出来ません。だからこの『出来ることの総量』を、少しずつ負荷をかけながら毎日行って習慣化し、能力を引き上げていくことでしか、『スゴイ成果』は手に入らないのです。こんな当たり前のことを思い知るためにセミナーに出席している私はただの○カなのかと自分で思ってしまいますが、あれやこれやと悩んだ末にたどり着いた結論が、意外なほどシンプルだということは、きっと誰しもが経験していることだと思います。
20分でブログを書くということは、私にとっては出来ることしか書けません。もしくはもう少しで手が届くだろうなと思ってチャレンジしていることしか書けません。私が『こうしたら世界はあっという間に平和になりますよ』とか、『こうしたら100億のビジネスを創りだすことが明日からできます』といった大言壮語を書けない中で、日々もがいていることや学んだこと、苦しんだことや乗り越えたことなどの集大成を、ちょっとでも形にして残したい、これが、このブログの存在意義であり、将来振り返って一つ一つのエントリを読み直した時に、新たに過去の自分自身から学ぶことが出来るのだと出来るのだと思います。
あと勿論ですが、僭越ながら、縁あって読んでくれた人に元気を与えられるものであればいいなと。

これからの筋トレの話をしよう その2


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『これからの筋トレの話をしよう その2』
はやりのタイトルのパクリで懲りずにその2について。筋トレというと、多くの人にとってはただ鍛えるのみならず、それがある種目のパフォーマンス向上に役立つものとして取り組みます。(勿論筋トレが目的で筋トレをしている人も山ほどいます。)その際、どのスポーツにおいてどこを鍛えるべきかということは、その種目をあまり知らない素人の側から見たときに、少し意外な場合もあります。
ボクシングはパンチのスポーツです。しかしその本質は脚力のスポーツです。常人であれば1R3分すらまともに動くことが出来ない世界で、それを10Rもこなします。そのためには、これまた常人には理解出来ないほどの走り込みが必要で、膨大な練習量の結果、並ではない肺活量をボクサーは持ちます。また、できるだけ強いパンチを打てる方がいいのは当然ですが、実はその場合、鍛えるべきは胸筋ではなく背筋です。胸筋を使って巻き込むように打つのではなく、背筋を使って押し出すように打つと威力が高まります。
テニスは手でラケットをコントロールしてボールをショットするスポーツですが、業界では『テニスは足ニス』と呼ばれています。歴代ナンバーワンのロジャーフェデラーという選手がいます。圧倒的な強さで一時代を築きました。少し前に、フェデラーの強さについての記事があり、もし手に入るとしたら、彼の能力のうちでなにがほしい?とライバルたちにインタビューをしました。フォアハンドの威力とかラケットワークとか総合力とかメンタルとか、様々な答えが出ました。しかし、一番多かったのは、『フェデラーのフットワークがほしい』というもの。原理上、テニスはボールが来た時にベストな場所にベストなタイミングで入れた者がポイントを取ります。ですからほとんどの場合、そのポイントはボールを爆裂的な勢いで打つほんの少し前に決まってしまっています。フェデラーは、自身がベストパフォーマンスを発揮出来るようにフットワークを世界一うまくコントロールしている選手です。
アムロちゃんやAKBをみていて、スポーツをやっている者として、一番凄いなと思うのは、そのパフォーマンスの質や踊りの速さではなく、単純な肺活量です。よくあんだけ動きながら歌えるなと。。カラオケでやってみるとわかりますが、仮に歩きながらカラオケを歌ったとしても、一般人では恐らく一曲持たないのではないでしょうか。
このように世の中には、スゴイ!と思える成果をよくよく分析してみると、一見して重要そうなものが大した競争優位を生んでおらず、一見して関係がなさそうなものが非常に重要なポジションを占めているということがよくあります。見えているところだけでなく、巡り巡って未来につながる、しかし今は目に見えない小さな部分を鍛えて強化する、ということは、目に見えてるものが溢れてしまっている時代には非常に大切な考え方になるのではないかなと思います。より強いパンチを打ちたいときに、腕や胸筋でなく背筋を鍛える必要があるように、より大きな成果を追求したときに、打つべき打ち手は時に逆張りだったりします。成長は時に、一見すると逆走に見える走り込みが必要になります。
大いなる模倣はオリジナルを超えると信じて、それをつなぎ合わせてオリジナルを紡ぎつづけてきた私ですが、模倣の際に見えてる部分だけでなく、見えない競争力の源泉を見極めることが肝要な時代になってきてると思います。
すごい人の成果の源には、大抵の場合、圧倒的な下半身の力があるものです。そしてそれは、一見関係ないところにあるので、よーく見なければ猿真似で終わってしまいます。。