子供と大人の境目


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みなさんこんぬつわ〜、ご訪問有難うございます、羅王のブログです。驚異の偏差値『8』を叩き出した高校時代から始まった『The 補欠人生』にピリオドを打ち、8桁超えの自己投資を通じて人生のレギュラーを目指す軌跡と奇跡を備忘録兼ねて徒然なるままに記しました。大体30分で書いてますので瞬発力重視なのはご愛嬌。。貴方とのご縁に一片の悔いなし!
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ここだけの話、僕は不治の病に侵されています。『ピーターパン症候群』という、大人になれない病気です。歳をとったら相応に落ち着きが出て大体世の中のこともわかってくるのかなと昔は期待していましたが、実際は歳を取れば取るほどやりたいことが沢山出てきて、そして世の中のことは知らないことが溢れているということに気づくようになりました。ぶっちゃけた話、体は大人になっちまいましたが、心はどんどん子供化、幼児化する一方です。昨日も書きましたが、最近は『やりたいからやりたいんだもん』と、新たなチャレンジに際して全く理屈をつけずに始めるようになってしまっています。退行化現象?
それはさておき、子供と大人の境目というのはどこにあるのだろう?としばしば考えます。年齢であれば二十歳や大学卒業、昔であれば元服の15歳から大人だったでしょうし、身体的なことを言えば下の毛が生えてくるらへんからが大人の仲間入りでしょう。が、いつの時代も若者はバカにされ、大人になりきれないことを揶揄されたりしています。
これは最近達した結論なのですが、僕の意見を言えば個人的には『誰が答えをくれるか』に対して明確な自分以外のWhoを答えられる場合は子供、と言えるのではないかと考えています。また、そこから解放もしくは放逐されて、自分自身で答えを見つけなければいけない状態に入ると、見事大人の仲間入りをします。
自分で答えを見つける必要にせまられる時期ということに関して言うと、(事故などによって)ごくたまにそれをある程度幼少期に課せられる人もいますが、多くは身体的に大人になってからです。少なくとも僕は就職活動をするまで、恐らくまともに自分の頭で答えを探そうとしたことはないのではないかと思います。(はずかぴー)まぁたまに現れる天才的高校生や大学生でもなければ、他の人もあんまり変わらないことでしょう。
昔はこの時期がぐっと早かったようです。江戸時代末期、立ち上がった漢たちはみなとても若かった。多くが20代、下手をすると10代後半から動き始め、日本の命運を左右するような圧倒的な動きをしました。国も藩もまともな答えをくれなくなっていた時代に、彼らはその年齢でした。だからこそ高杉も伊藤も久坂も若かったのではないかと思います。
今はどうでしょうか?幼少期は親が答えをくれます。では大学に入るタイミングや社会人になるタイミングで自分で答えを探すようになるでしょうか?親の庇護下からは抜けるかもしれませんが、例えば入社と同時に『先輩』や『上司』という、答えをくれる人がまた周りに現れます。つまりこの時点ではまだ子供だということです。
では何歳から大人に、答えを自分で探すことが出来る状態になるのでしょう?課長になっても部長が、部長になっても取締役が、取締役になっても社長が、社長になっても会長が、答えをくれたりします。昔あったオー人事オー人事のCMでは、社長から部長、部長から課長に責任がガンガン降りてきていましたが、ちょうどそれの逆です。何歳になっても、職位が何になっても、答えをくれる人が上位にいたりします。
これでは下手をすると、『25歳だけどまだ子供です』程度ならいざ知らず、『いや、わたくし42歳で子供です』、『いやいやあだずは56歳だけどまだ子供です。そろそろ大人になりますわ。』という人も出てきてしまうのではないでしょうか。というか、世のなかちゃんと分析してみると、結構な数の『大人』が、『子供』だと判明するのではないかと危惧しています。
子供はラクです。だって正解は上から降りてきて、しかもそれは大体一つか二つしかないからです。大人は大変です。正解は上から降りてこず、しかもその正解となりうる解は一つとは限りません。いくつもあるかもしれないし、一つもないかもしれない。一つ見つけても、もっと良いものがあるかもしれない。そんな中で意思決定をしていくのが大人です。
が、大人にも良い点があります。それは、『選択肢の中から決まった正解を当てられる子供が良い子供』であるのに対し、『選んだ選択肢を(無理やりにでも)正解にすることが出来る大人が良い大人』というふうに、実は評価基準が超甘甘なのです。せいぜい10しかなかった子供の頃の科目は、大人になるとそれが数千数万に増えます。そしてそのどれを選んでも、正解に近づけようとする限りは正解なのです。
結婚なんぞはその最たるものです。子供的発想で考えれば、『どのように最高の家庭を築ける相手を見つけるか』が命題となりますが、大人的発想で言えば、『選んだ相手との家庭を最高にしていく』となります。好みの相性などもあり前者の成功率が数%しかないであろうことは想像に難くないですが、一方後者の成功率は限りなく100%に近くなります。なぜなら、選んだ選択肢を正解に近づけようとするそのプロセスは、実は一片の無駄もない前進を生むからです。
僕の中では、半独立のような形になったこの仕事に就いた8年前、それが大人の階段を登った時だったと、今思えば定義することができます。そしてそれは実はフリで、本当に階段を登りきったのは2009年頃、マジで死ぬかと、いやむしろ死にたいと思うような苦労をした時でした。人によって時期は異なるものの、今自分が『誰かから答えをもらっているのか』、それとも『自分で答えを見つけているのか』、または『選んだ答えを正解に近づけようとしているのか』を自己に問うことは、省察の意味でも非常に重要なのではないかと思います。
答えがないってことは、答えがいくらでもあるってことなんさね。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!
我が人生に一片の悔いなし!

時には幼児のように意思決定


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みなさんこんぬつわ〜、ご訪問有難うございます、羅王のブログです。驚異の偏差値『8』を叩き出した高校時代から始まった『The 補欠人生』にピリオドを打ち、8桁超えの自己投資を通じて人生のレギュラーを目指す軌跡と奇跡を備忘録兼ねて徒然なるままに記しました。大体30分で書いてますので瞬発力重視なのはご愛嬌。。貴方とのご縁に一片の悔いなし!
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最近ロジカルの権化もというべき戦略コンサルティング会社の人数名と友達(自称)になりました。もともと父がその道に黎明期から属していたこともあり、かなりの興味を持っていたのですが、最近仲良くしてもらってるのがトミー(http://tomyy.hatenablog.com/)。
勝手に頭の中に描いてたステレオタイプも含めて勝手に評すると、
・戦略コンサルなのにいい奴(ロジカル過ぎてイヤな奴が多いのでは?と勝手に想像してた)
・やはりロジカル、だけどガンガンくるわけではない。
・こちらがロジカルでなくても別に否定してこない。
・不確実なことは絶対に言わない(いわゆるFact重視ってやつ?)
・いわゆる『人間』だった。もちろん頭は良い。
偏見に満ち満ちた従前のイメージがありありと浮かんできて、トミーはじめその業界の皆さんに申し訳ないです。。。そして上記偏見のかなりの部分を綺麗さっぱり洗い流してくれたトミーに感謝!
さて、今日はトミーとは関係ありませんが、ロジカルと感情について(この題名設定時点で既にタイトルがロジック不適合なのはご愛嬌)
最近達した結論のひとつは、『通常時はロジカルに、非常時は感情で』です。普段はロジカルに考えてて差し支えないけれど、非常時=人生を多かれ少なかれ左右するような大事なことに関しては、感情に従って意思決定すべきではないか、そう提言したいわけですあたくし。
ロジカルに意思決定をする場合、それが既知の内容のものであればある程度効率的合理的に進められると思います。しかし知らないことはロジカルに言い様がない、これが最近僕が発見した法則です。およそ人間というのは、知らないことに弱いです。過去はよく知ってても未来は分からないケースが多いです。新しく何かを始める場合、そのデメリットは言えたとして、メリット、すなわち実現した暁に手に入るものに関しては、その感覚が当然ないためロジカルに説明しようがありまえせん。卑近な例として、結婚する/子供を持つデメリットは事前にある程度分かったとして、結婚/出産するメリットが心の底から分かるのは、その二つを実際に経験したときであって、同時にそれは事前に分かるものではありません。
意思決定は架空の天秤がどちらに振れるかが勝負なのであって、片方の重さが分かっただけでどちらに傾くかが決まるわけではないのです。デメリットが5kgでメリットが10kgあれば当然やるべきでしょうし、仮にデメリットが100kgあったとしても、メリットが1000kgあれば、やはりそれはやるべきなのです。が、悲しいことに、メリットの1000kgは、しつこいようですがそれを経験するまではどんなにロジカルに考えても分かりません。子供を持つ喜びって、どうあがいてもロジカルに説明できないし、説明できたとして、陳腐な表現以上のものにはなりません。
僕の例で言えば、結婚も、子供を持ったことも、極真を始めたことも、テニスを始めたことも、一人旅にエイヤで行ったことも、全てロジカルに考えて行き着いた結論ではありません。むしろ、全て感情に流されて意思決定した結果です。『理由が三つ』あったわけではなく、『理由は一つ』しかなかったのです。極真で言えば
『ただやってみたかった』のです。
子供は大人を見習うものですが、僕は意思決定に限っては大人が子供を見習うのもありなんじゃないかと思っています。娘がプリキュアの変身グッズを欲しいと言い始めました。『何で欲しいの?』と聞きました。帰ってきた答え。
『あのね、ほしいからほしいんだもん。』
強烈な意思を感じました。原因と結果が一緒になっててもおかまいなし。強烈に欲しいということが伝わってきました。僕は近いうちに変身セットを家に届けることになるでしょう。
ほしいからほしいんだもん。
やりたいからやりたいんだもん。
いきたいからいきたいんだもん。
ほんとに欲しいもの、やりたいこと、行きたい場所というのは、理由として挙げられるのはこんな程度の陳腐な言葉なんじゃないでしょうか。そしてそれが一番強いのでは?僕は最近色々なものに手を出して人生を拡張させようとしていますが、その判断基準は『理由はよく分かんないけどそれやりたい!』と思えるものかどうかです。『これはやるべきだ、その理由は1、○○ 2、○○ 3○○』とロジカルに説明出来てしまうようなものは、恐らくあまり自分にとって重要な影響はもたらさないのだと思います。
心が震えるモノ、コト、ヒト、そういうものに積極的にアクセスしていきたい。そのためには、ロジカル度ゼロ、感情度100%の幼児を見習おう、そう思いました。だってこじはる好きなんだもん。
『通常時はロジカルに、非常時は感情で』
時には幼児のように意思決定しましょう。
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我が人生に一片の悔いなし!

チョロいと思えれば前に進む


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みなさんこんぬつわ〜、ご訪問有難うございます、羅王のブログです。驚異の偏差値『8』を叩き出した高校時代から始まった『The 補欠人生』にピリオドを打ち、8桁超えの自己投資を通じて人生のレギュラーを目指す軌跡と奇跡を備忘録兼ねて徒然なるままに記しました。大体30分で書いてますので瞬発力重視なのはご愛嬌。。貴方とのご縁に一片の悔いなし!
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何事も、始めなければ始まりません。が、やったことないことは、そういうのに限って始めるの自体が億劫だったりします。多くは過度に難しいものや大変なものと思い込んでいたりしてスタートが遅れるのですが、何らかのきっかけでそれをやらざるを得ないことになると、意外と大したことなかった、そんな経験は誰にでもあるのではないでしょうか。
いやだいやだと思ってずーっとやらなかった夏休みの宿題。追い込まれてラスト2日でやったら出来ちゃった、もっと早くやっておけば夏休みがもっと楽しかったのに、なんてことは僕の6回の小学校の夏休み中、恐らく6回程度発生したのではないかと思います。いやそれ絶対無理!!!と叫んでいるバンジージャンプ落下直前の人は、インストラクターの人に落とされたら勢いよく落下していき、大体の人はその後笑顔を見せます。やってみたら出来るのです。
ここで問題なのは、『それ』をやってみるまでは、『それ』を出来るとはとても思えないということです。だからチャレンジ出来ない。チャレンジしないからいつまでたっても出来るようにならない。。そんな循環に陥ります。大抵のことはやってみると意外とチョロかったりするのですが、問題は『それ』をやるまでは心の中に大きなハードルがあり、それゆえに『それ』に着手出来ないということです。
僕の例で言えば、長年マラソンなり富士登山なりは健康増進やモチベーションアップ、自分制覇などを目的として『いつかやりたい!』と思っていたものの、やれ仕事が忙しいだのやれめんどくさいだのやれやる気が出ないだのといろいろと言い訳をして、ここまで来てしまいました。今回仲間の強制的なお誘いを受けてフルマラソンをエントリしたわけですが、自分一人だったらどこまで先延ばしにしてたかわかりません。
さて、やったこともないことを心の中でハードルを下げるために、僕達は何をすれば『それ』に取り組み易くなるのでしょう?
最近たどり着いたひとつの結論として、『それをチョロいと思えるか』が結構大事なんだなと思うようになってきました。チョロいと思えれば出来ると思えるし、出来ると思えれば前に進もうという気になるし、前に進もうという気になれば少しは着手し、そして実際にやってみると意外と大したことなくてそのまま進む、なんてことになります。だからこの『チョロいと思える』ことはとても大事なのです。
ではそのためにどうすればよいか?
『それがチョロく見えてしまう比較対象を研究する』です。
例を挙げます。僕は11月の42.195kmのフルマラソンにエントリしました。ラン初心者です。10年近く事情があって運動あまりできませんでした。体重はいつの間にか90kg近いです。仕事は不規則で、走る時間はあまり取れません。客観的に見て非常に難しい状況なのですが、じゃあ待てば状況が好転するかというとそんなことはなく、加齢とともにどんどん走れない体になっていきます。
が、ここであるランの先輩から、『サハラマラソン出た人のブログすげぇよ、見てみ』とすんばらしいアドバイスをいただきました。読んでみました。まぁヒドイ。サハラマラソン250kmをはじめ、アタカマ砂漠マラソン、ゴビ砂漠マラソン、北極マラソン、南極100kmマラソン、沖縄520kmマラソンなど、42.195がハナクソに見えるような有り得ないレースにバシバシ出場されている方で、そのブログの内容も鼻血が出そうなほど強烈です。ここで思ってしまいました。
『あれ?42.195kmって、チョロくない??』
断っておきますが、僕は今のところ200mぐらいしか走れませんし、フルマラソンを馬鹿にしているわけでは決してないし、むしろ走る人は尊敬してるし、そもそも走れる体じゃないし・・・てなわけで、42.195kmがチョロいわけでは現実的には全く有り得ません。が、上記ブログを見た後はさも自分ができているような気になってしまって、『南極100kmに比べたら、42.195kmはチョロすぎ天国だぜ』なんて思ってるわけ。
こう思えたら勝ちです。
人間、同じ物事についても、出来ると思ってれば出来るし出来ないと思ってれば出来ない、これは何千年も昔から民族を問わない誰にでも当てはまる普遍の真理です。そして僕のマラソンについても同じことが言えます。現時点で出来る出来ないは関係ありません、しかし『チョロい』と思える、すなわち出来ると思えることはとても重要です。
繰り返しますが、現時点での能力は関係ありません。それを『出来る』と思えるか、『チョロい』と思えるか。そう思ってる人とそうでない人の間には、同じ潜在能力があったとしてもその引き出せる力の率が何倍も変わってきます。
極真の試合で、相手が帯を忘れて白帯を装着していて『チョロいぜ』と思って対戦してボコボコにした際、後でよく聞いたらホントは自分より上の帯だった、なんてことが昔ありました。これも『チョロい』と思えているかどうかで実力が変わった好例だと思っています。恐らく最初から相手がちゃんとした帯を締めていたら、やれ『上段が来るかも』とか『パンチは気をつけなきゃ』とか余計な気を回して、あっさり負けていたかもしれません。
何かにチャレンジしたい、けど足も手も動かない、なんてときは、その目標が『チョロく』見えるような比較対象を探してみると、意外と前に進めたりするかもしれません。10kg痩せたかったら、50kg痩せた人の奮闘記を読めば良いのです。『おいおい10kgも痩せるのかよ〜』が、『たった10kgか、チョロいぜ』になればしめたもの。本当にチョロいかどうかは知りませんが。。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!
我が人生に一片の悔いなし!

サイヤ人が強いのは当たり前理論


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みなさんこんぬつわ〜、ご訪問有難うございます、羅王のブログです。驚異の偏差値『8』を叩き出した高校時代から始まった『The 補欠人生』にピリオドを打ち、8桁超えの自己投資を通じて人生のレギュラーを目指す軌跡と奇跡を備忘録兼ねて徒然なるままに記しました。大体30分で書いてますので瞬発力重視なのはご愛嬌。。貴方とのご縁に一片の悔いなし!
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僕は学生時代に一人旅に目覚め、そしてそんなに多くはないけれど各地を旅してきました。最もエキサイティングだったのはカオスなインド、最も楽しかったのは適当さの極みイタリア、最も憧れたのはハイジを地で行くスイス、最も夜景が綺麗だったのは意外や意外、ボリビアでした。が、最も感動したのはマチュピチュ以外に誇るべきものがあまりないように思えるペルーでした。
もちろんマチュピチュも良かった、インカ帝国の首都クスコも良かった、飯も結構旨かった、などあるのですが、かの国でスーパーガールと出逢ったことが、僕のその後の人生観を変えました。高度3500mを超える高山病と隣り合わせの街クスコで出逢ったその子は、見た目が日本人、中身は中国系オランダ人でした。なんと英語、オランダ語、フランス語、中国語(北京、広東)が出来、スペイン語を勉強しにペルーまで来ているという子でした。僕よりひとつ上の当時若干23歳。
ぶったまげました。こんな奴おるんや、と。そしてともに世界平和(※よく勘違いされるのですが、世界制覇ではありません)を目指す身、何日も語り合いました。一人旅10カ国程度の中で、誰との出逢いが一番強烈で心に残っているかと言われれば、間違いなくこの子を僕は挙げます。今の考え方も、仕事のスタイルも、この子との出逢いがなかったら僕の中には存在していなかったかもしれません。
話は変わりますが、ある起業家の方は、縮小しつつある日本市場だけでなく、世界を見据えて事業展開を始めました。最初はアメリカ、そして成長著しい中国はじめとしたアジア。しかし途中で、距離的には遠いものの、やはり欧州も見逃せないことも気づきました。そこで欧州のHubとも言えるルクセンブルクを訪ねました。びびったそうです。なにせ、国民のほとんど全員が英語、フランス語、ドイツ語、ルクセンブルク語を話す異様な国家なのです。僕ですら、東京弁と少しの名古屋弁とほんの少しの英語と3カ国後しか話せないのに、国民全体がクワトロリンガル。。恐ろしい。。
僕の奥さんの友達は中国人ですが、その子供は二人とも日本語と中国語のバイリンガルです。お母さんと普通に話す時は日本語、お母さんに怒鳴られる時は中国語、というように、感情というバロメータが使用言語を決定するという、見ていて不思議な光景です。
さて、一部は出来ない言い訳として何度も何度も自分に言い聞かせてきたことですが、言語に関して言うならば、間違いなく才能ではなく環境です。『そういう環境』にいたら、誰でも話せるようになります。日本に生まれた僕達の誰もが日本語に(話すだけなら)不自由しないように、アメリカに生まれ育ったら英語にしないし、中国に生まれ育ったら北京語か広東語に不自由しないし、フィリピンだったら英語とタガログ語、ルクセンブルクだったら先の例のようにクワトロリンガルになってしまうのです。
これは頭良いとかアホとかは関係なく、環境の違いです。僕はこれを、『サイヤ人が強いのは当たり前理論』と呼んでいます。悟空、ベジータを含めたサイヤ人は、惑星ベジータという星をその生まれ故郷としています。その星の重力は地球の10倍で、その戦闘嗜好性とも相まって、通常では考えられない戦闘力を手に入れた、そのように言われています。彼らがもし地球で生まれていたとしたら、『戦闘民族サイヤ人』ではなく『地球一丁目のチンピラ集団』に収まっていたかもしれません。重力10倍の星に生まれたという環境が、彼らの戦闘能力を飛躍的に向上させたのです。
さて、僕がここで言いたいのは、『俺は日本生まれなんだからしょうがないじゃん』という社会に対する逆ギレでも、『サイヤ人が重力10倍の星で育ったのに、重力1倍の地球で育った悟空がそいつらを凌駕したのはどういう了見だ!?』という問題提起をしたいわけでもありません。本人の努力の度合いはもちろんのこととして、その前提条件として環境があることは否定できません。日本に生まれ育ってクワトロリンガルになるにはそれこそ死ぬほど努力が必要と思いますが、ルクセンブルクに生まれていれば、大して意図した努力を必要とするわけではないと言えます。(たぶん)
としたときに、僕達が考えるべきは、自分が目指す方向に対して進む第一歩として、『どのようにしてそういう環境に自分をブチ込むか』ではないか、そのように考えています。
日本にいながらにして英語が学びたいと思った時にするべきは、英語の教科書の一ページ目から目を皿にして読む、ということではありません。それよりも、限られた時間で英語漬けになるために、クソ高い英会話マンツーマンレッスンに申し込んでスケジュールに強制的に組み込んでしまう、家のマンガを全て捨てて全て英書にする、テレビにCNNを映るようにする、iPodの中身を全て英語にする、夜は外人のいるところにしか行かない、FBを全て英語で書く、など、ある程度意志力を無視したとしても『そうならざるを得ない』ような環境を自分に対して用意してあげることです。重力を10倍にすれば、勝手に筋肉も骨も強化されていきますし、周りが戦闘民族(≒英語しか話さない人たち)であれば、自分も曲がりなりにも戦闘民族に近づいていきます。
生まれ育った環境を変えることは出来ないにしても、これから先、自分をどういう環境下において育てて行くか、ということに関しては、大人に関してはほとんど全て自分の裁量権下にあります。また、人間の意志はあまりあてにならないという前提で物事を考えるとすれば、『とりあえず環境を作ってそこに自分をブチ込む』中で強制と矯正が働き、望む方向100%とは行かないまでも80%程度の精度でそこにたどり着くことはできるのではないだろうか、そんなふうに楽観的に考えています。
てなわけで最近習った『ノーポチ』がもしかしたら人間的成長において一番手っ取り早い方策なのではないかと考える今日この頃です。これに関してはまた書きたいと思います。僕だってサイヤ人みたいに重力10倍の星で生まれたかったですよ。。
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我が人生に一片の悔いなし!

『古くて進んでる』ものを追求したい


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みなさんこんぬつわ〜、ご訪問有難うございます、羅王のブログです。驚異の偏差値『8』を叩き出した高校時代から始まった『The 補欠人生』にピリオドを打ち、8桁超えの自己投資を通じて人生のレギュラーを目指す軌跡と奇跡を備忘録兼ねて徒然なるままに記しました。大体30分で書いてますので瞬発力重視なのはご愛嬌。。貴方とのご縁に一片の悔いなし!
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久々に米国出張シリーズ以外のネタを書きたいと思います。
ある人は言いました。時代をつくるのは『ヨソ者と若者とバカモノ』だと。なるほど今までの日本もそういう人たちが時代を作ってきたし、これからの日本もそういった人たちがきっと新しい時代を作っていくことでしょう。
俺のフレンチや俺のイタリアンを展開する『俺の株式会社』の社長さんは、元料理人でも元レストラン経営者でもありません。業界の常識となっている『フレンチは高いお金を払ってもらうもの』や、『ディナーはじっくり腰を落ち着けて時間をかけて食べるもの』という既成概念をことごとくぶち壊し、いまや寵児となりました。打ち立てたブランドを更に展開して、『俺の中華』、『俺のカレー』、コンビニシリーズで『俺の煮物』、『俺のレトルト』なども作ってもらえると良いなと思っています。働いている人たちは元一流店の伝統を携えた方々ですが、ビジネスモデルは全く新しいものとなりました。
一方、料理人の世界やパティシエの伝統的な世界では、未だに皿洗いやその他雑用を数年、仕込みを数年、そこから一人前への道の入口に立つことが許される、といった業界も少なくありません。確かに基本が大事、というのは頷ける話ですが、では果たしてお寿司を握る権利を得るのにお皿洗いに3年間を費やしたとして、寿司職人としてのトータルのクオリティは、入店2ヶ月目から握ることを許されていた『俺の鮨屋(そんな店ないけど)』の人と比べて優位に立てるでしょうか。僕はそんなことないと思います。基本が大事とスクワットだけを3年間やり続けた人よりも、入門初日から組手を重ねてきた人の方が、極真においては少なくとも絶対に強いです。
『古い』と『遅れている』というのは、似て非なる言葉です。より正確に言えば、もし分類するとしたら『古くても進んでいる』ものもあれば、『古くて遅れている』ものもあれば、『新しくて進んでいる』ものもあれば、『新しいけど遅れている』ものもあります。
先に述べた『皿洗い3年してから料理をする』というのは、『古くて遅れている』ことの典型だと思います。精神論は別として、果たしてそれが本当に必要かと言えば、否と一刀両断できる類いの慣習や常識です。『水を飲んだら負ける』と言われていたスポーツの世界で、水を飲まずに負けた人がどれだけいたことでしょうか。
『古くても進んでいる』のは、中国古典ではないかと思います。何千年もの間言われ続け、使い古されてきた表現ながら、そのほとんどはこれから先の時代を表現するにも、的確かつ適切なものです。ドラッカーなども、数十年前の著作にも関わらず、仮に今最新著書として出版されていたとしても不思議ではないような表現が多々あります。
『新しくて進んでいる』ものの大半は、いわゆる天才たちが発明するものです。Windowsしかり、iPhoneしかり。しかしそれらもよくよく見てみると、誰かが本当に『発明』したものを、『カイゼン』して世に流布したといったスタイルのものが実は多いです。iPhoneのタッチパネルは、技術そのものはその10年ほど前から実用可能なラインにあったとさ。
『新しいけど遅れている』のは、僕の中では最先端の金融工学がそれに該当します。一体何のために金融があるのか?を意識的無意識的に忘れさせ、その業界に関わる一部の人たちだけを過度に潤す仕組みが金融工学です。進みすぎたテクノロジーが世の中を破滅させるに至る、笑うに笑えない喜悲劇の最たる事例をこの数年だけでも幾つも提供してくれた、素晴らしい業界です。(業界の皆さんごめんなさい、でもそう見えるのよ。)目標と目的と履き違えると、こういうことになります。
僕が技術的センス的才能的に無理だなと思うのは、『新しくて進んでいる』何かを生み出すことです。天才じゃないから無理。そして倫理的信念的に無理だなと思ってるのは、『新しいけど遅れている』ものに着手することです。新しいから便利だしすごいけど、それって人間本来の人生にとってほんとに必要なの?みたいなものを、志事にする気にはなりません。また、『古くて遅れている』ものの大半は、僕のこの根性なしな気持ちが持たないため、やはり却下です。強くなるからスクワット3年やってろと言われても、僕には無理ですね。
ここ数年注目しているのは、『古くても進んでいる』何かです。原理原則、歴史、古典、理念、そういった時代の変化や流行りにに影響されないものを学び、力を入れて時間もお金も使っています。例えば、『お客様を喜ばせる』という理念は、どの時代にも誰からもYesと言われるものです。その方法は場所や地域や職種や職位によって違いますが、僕は今の仕事でそれを最大限満たすにはどうしたら良いかを日々考えています。『調子に乗ったら転落するよ』的な昔から言われている教えを知っていて肝に銘じていたおかげで、どの転落事例を見ても、少なからずそういう側面があったことに気づくことができ、また自分に対しての自戒を怠らないでいることができます。
ちなみにいま、『古くて遅れている』保険業界において、『古くても進んでいる』何かを僕はやろうとしています。恐らくあまりやってる人いないんじゃないかな?でもお客様に必ず喜んでもらえるものだという理念の元、ひーこらいいながら既存のものを組み合わせて作り上げています。きっと今後数十年に渡り、僕が目指す方向に至るための強力な推進力となるはずです。
僕は段々歳を取っていきますが、それでも『(業界の慣習にとらわれない)ヨソ者』であり、『(いつまでもチャレンジをし続ける精神的な)若者』であり、『(理念や目的のために、不必要なルールや常識を積極的に打破していく)バカモノ』でありたいと思っています。一時期、『お前最近まともになってつまんないね』というお声をいただき大変に焦ったことがあるので、もうそういうことがないようにガンガン進んでいきたいと思います。
P.S ちなみにその時『つまんない』と言われた本当の意味は、『昔は仕事とも結婚とも育児とも完全に無縁なサイテーテキトー野郎だったのに、よくぞ仕事まともにして結婚してイクメンとかなれたよね。』という遠まわしな褒め言葉だったのです。でも個人的には『小さくまとまってんじゃねーよ』、としか聞こえなかったので汗。あの頃に比べると家族が出来、体重は15kg増え、仕事は志事になりました、成長してますハイ。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!
我が人生に一片の悔いなし!

【MDRT世界大会シリーズ】またまたトイレ論


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みなさんこんぬつわ〜、ご訪問有難うございます、羅王のブログです。驚異の偏差値『8』を叩き出した高校時代から始まった『The 補欠人生』にピリオドを打ち、8桁超えの自己投資を通じて人生のレギュラーを目指す軌跡と奇跡を備忘録兼ねて徒然なるままに記しました。大体30分で書いてますので瞬発力重視なのはご愛嬌。。貴方とのご縁に一片の悔いなし!
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※世界中の保険業界の代表選手が集まるMDRT Annual Meetingに出席するため、米国はフィラデルフィアとニューヨークに滞在していました。に関する思考の徒然をここ1週間ほど続けたいと思います。
MDRT関連のフィラデルフィア、ニューヨーク出張シリーズも今日で最後にしようと思います。あーだこーだと日本とアメリカの比較をしてきましたが、結論としては、やっぱり日本ていいよね、やっぱり日本人で素晴らしいよね、という自画自賛が一番感じたことだったかもしれません。今ひとつ考察するとすれば、数々の『至らない』ように感じた点、それは日本とアメリカの、あるいは日本人とアメリカ人の能力の違いから来るものではなく、日本とアメリカの中で共有されている基準の違いであるということがわかりました。
アメリカという国は人種のるつぼです。いわゆるアメリカ人に見えるアメリカ人=WASPもいれば、デカイ黒人も沢山(関係ないけど、マチョメンな黒人の武力を凌ぎたいので極真やってます)、スペイン語の方が得意なヒスパニック、最近バシバシ増えているアラブ系やインド系、韓国系中国系日系と僕達に見た目近い系と、本当に沢山の種類の『人間』がいます。あーこれぞ世界だなぁと、心から思いました。
この多様な人たちは、当然のことながらバックグラウンドや慣習や味覚や常識も多種多様です。同じ民族の中でも人によってでも嗜好が違うのに、それら全種類の全員の満足を100%満たすことはほぼ不可能です。よって諸々検討の結果選択されたのは、『最低限のレベルで最大公約数を満たすサービス』だったのではないか、それが僕の浅はかなる結論です。
僕は日本のトイレは世界一だという矜持を持って、フィラデルフィアやニューヨークでも自慢のおなかの弱さを発揮しました。驚いたのは、ニューヨークのような『世界一』な街でも、流さない奴がいるということです。しかもブロードウェイのミュージカルで。前に用を足して出てきた人と目があったのですが、扉を開けて愕然としました。紳士然としてたのに。
僕の尊敬する先輩は、少なからず地獄を味わったことと思います。その先輩は渡米直前にぎっくり腰をやっており、そしてアメリカのトイレは不自然なほど体を後ろに捻らなければならない位置にトイレットペーパーがあったりするのです。何考えてんでしょーね?
僕も少なからずうめき声をあげました。僕は人に自慢するぐらいおなかが弱く、そしてそれはアメリカでも十二分に発揮されました。が、優しくない。日本と違って優しくないのです。紙が。。もはや臀部を切り刻みに来てるとしか思えない硬質な紙にまさにその通りのことをされ、殴られてもないのに出血する始末。アメリカをhateしたのはその食事に対してではなく、そのrest roomに対してでした。
何度か語ってきたことですが、便器のハードにも大きな違いがあります。とりあえず流れればよい、という名目のもとに全く水量と水圧を考えないため、そこかしこに飛び散るのです。しかもセンサーがこれまた感知すれば良いやといった感じで過度に敏感なため、拭いて座ろうとしたら反応してジャーして飛び散る、拭いて座ろうとしたら反応してジャーして飛び散る、といった形で、いつまでもキックオフを迎えることができませんでした。
犯罪防止なのはよくわかりますが、いわゆる公共トイレなるものが圧倒的に少ないのも特徴です。高層ビルにもビルの公共トイレなるものが設置されておらず、テナントのレストランなどでご飯を食べたり、オフィスのワーカーでない限りは用を足せません。コーラやスプライトなどのアメリカの物質主義に押され押されておなかを痛めた僕は、とっても苦労したのでした。極まると歩き方が『ニンジャ』になってたでしょうね。
トイレに話を絞りましたが、こういった事象の全てが、『最低限レベルで最大公約数を満たすサービス』の具体的事例です。すなわち、
『最大公約数を満たす』=人間は用を足す必要があるため、トイレは必要、紙も必要、流れるのも必要
のを、
『最低限のレベルで』=紙の質にもこだわらない(尻が拭ければOK)、水圧水量にもこだわらない(流れればOK)、紙の位置にもこだわらない(手が届けばOK)、巨大な掃除人が立ってて圧迫する(汚れたら清掃するためならトイレのホスピタリティなどもってのほか)とかもカンケーない
提供している、それがアメリカのトイレなのです。使う人の人種もマナーも好悪の感情も様々だからこそ、とりあえず『用が足せる設備』を置いてあるだけなのです。これはこれで合理的だということができるでしょう。
他に目を向けても、ほとんど全てが『とりあえずそれが達成出来れば良い』という思想で作られたり設置されているものが多いです。ホテルのチェックイン、航空券のチェックインとも、チェックインが出来れば良いという目的以外に、『早く列を進ませてあげよう』とか、『長旅で疲れてるだろうから少しでもスムーズにいくように』とか、『あの人は中東系だから英語分からないかもしれないからこっちのラインに案内しようかな』などという気配りはほぼありません。お金を膨大に払っているクラスの乗客は別ですが、それにしても日本で『無料』で受けられる気配りとはレベルの違うものです。
この、『最低限のレベルで最大公約数を満たすサービス』が基本となっているアメリカ社会というのは、先の通り人種の多様性が生んだ産物であって、必ずしも『日本人以外が気が利かない』というわけでも『ホスピタリティに関して日本人以外はサイテーだ』と日本人の能力面の優位性を喧伝すべきものでもありません。ただ、結果として日本では相対的に気配り心配りが『当たり前』のものとなっていて、それが極めて良い方向に向いている社会なので、少なくともそれを僕達は誇るべきだろうということです。
単一民族ゆえに常識もマナーも考え方も味覚も相応に画一化されてきた、だから日本人は弱い!などという論調も、これから前を向いて進んでいくには一考に値しますが、僕はそれよりも、毎度海外に行く度に感じる日本と日本人の素晴らしさ、これを常に忘れないでいられるように、そして伝えていけるように、自分に何ができるかを考えていきたい、そんなふうに思います。
とりあえず、トイレを流さない奴が世界にいる限りは、日本の時代は終わらない、僕はそう信じています。
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我が人生に一片の悔いなし!

【MDRT世界大会シリーズ】アメリカとゆう国


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みなさんこんぬつわ〜、ご訪問有難うございます、羅王のブログです。驚異の偏差値『8』を叩き出した高校時代から始まった『The 補欠人生』にピリオドを打ち、8桁超えの自己投資を通じて人生のレギュラーを目指す軌跡と奇跡を備忘録兼ねて徒然なるままに記しました。大体30分で書いてますので瞬発力重視なのはご愛嬌。。貴方とのご縁に一片の悔いなし!
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※世界中の保険業界の代表選手が集まるMDRT Annual Meetingに出席するため、米国はフィラデルフィアとニューヨークに滞在していました。に関する思考の徒然をここ1週間ほど続けたいと思います。
アメリカという国に対する印象は、わずか一週間の滞在で最高と最低と尊敬と侮蔑と憧れと嘲笑が入り交じった複雑なものになりました。大手町の数倍も乱立する高層ビルや、スパイダーマンのミュージカルなど、『こりゃどうあがいても敵わんな、さすがアメリカ!』というものもあれば、『なんじゃこりゃ!こんなこともまともに出来んのか!』と思わざるを得ないサービス面のいまいちさやトイレのハード面の不十分さ、使用マナーの悪さなど、相反するような要素が入り混じっているのがアメリカという国でした。
が、カンファレンスやミュージカルなどのメインイベントではなく、一週間の日常生活から感じた肌感覚的なもので言うと、この国は『自由と責任』の求められる度合いが日本とは全く異なるのではないかと言えそうです。
昔外資系に勤めていた際に、『喫煙者と肥満の人は偉くなれない』というような話を聞いた気がします。それは自己管理が偉くなる人の条件ですよ的な教訓だったように記憶していますが、新卒の頃から10年を経て、アメリカという国に来て改めてその格言を思い出すに至りました。毎日毎日強烈に感じたのは、この国は『流されれば堕落する国』だということです。
代表例として挙げるとすれば、この国ではぼーっと生きていたら確実に太ります。朝は大量のジュースとコーヒー、食事は何を注文しても手加減のない量が出てきて、烏龍茶などめったにないため巨大なカップに入ったコーラやファンタでご飯を流し込み、合間にはこれまた巨大かつ何十種類も揃えられたスナック類やチョコがズラリ、スタバで骨を休めようとして出てくるドリンクの甘いこと甘いこと。僕がとてもかわいく見えるサイズのご婦人が跋扈していましたが、それも頷ける食生活でした。堕ちる奴は堕ちていく、と形容してしまうと乱暴なのかもしれませんが、そうとしか思えない有様でした。日本から来てしばらくは気をつけていられたとして、しばらく生活していたら間違いなく流される自信が僕にはあります。だってみんなそうだから。
そうして肥満していった人たちは、そこから先、更に加速度的にコーラやファンタやスナックやチョコを求めるようになります。それらの人々に際限なく飼料を提供しているのが、ほんの一部のいわゆる『喫煙も肥満も縁のないアメリカンエグゼクティブ』たちの経営する会社なんだろうと思います。自由と責任を履き違えて大勢に流されていくことで、結構恐ろしい未来が待っている、そんな国に見えました。ごめんアメリカ、でも怖かったよ。だって、多くの人はそういうことにすら気づかずに、今日も肥大化してるんだもの。少し恐ろしくなりました。
こういうのに比べたら、日本の食生活のなんと豊かなことか。日本に昔からある食事に、未来を壊すものなんてのはひとつもありません。短期的な満足ではなく長期的な幸せを追求することを、さして意識しなくても提供することが出来る日本の食事というのは、本当に素晴らしいものだったんだということが身に染みました。(最近は欧米化しているというけれども、まだまだ大丈夫だと個人的には思います。)
アメリカは『自由と責任』を常に意識していないといかん国であり、それを怠ると堕落します。言い方は申し訳ないけどそういう国だと断言できます。日本はどうだったかというと、それを意識せずとも社会全体がそこまで脱落者を出さないような仕組みになっていた、そういうとっても温かい国だと言えるのではないでしょうか。だから日本人一人一人は平和ボケして戦闘力がない、などとボカスカ言われますが、僕個人的にはそういうところも含めて、非常に素晴らしい国だなと自分の国を誇らしく思いました。暗に階級化されたアメリカは、確かに自由を叫んではいますが、容易に底から抜け出せないような社会構造になっている気がします。
一方、これだけボコボコに言いたいアメリカにもひとつならず素晴らしい点があります。それは、やはりよく言われているように『失敗に寛容』なこと。日常レベルで言えば、誰一人として、僕の下手くそな英語をなじる人はいませんでした。
僕の経験で言うと、英語を習い始めた中学の時点ですら、(全員絶対値として全く大したことないレベルなのに)英語の上手い奴が発音がイマイチな奴を馬鹿にしたり、それを気にして下手な奴が英語を口にするのを避けたり、ということがありました。どんぐりの背比べとも言えないほどレベルの低い習い始めの時期にすら、そういう失敗に対する手厳しい評価があったりしました。ちなみに一方で過度に発音がいい奴は、『何カブれてんだよ!』とこれまた馬鹿にされる、という悲しい状態でした。。英語の授業なのに、良い発音は評価されないのです。
アメリカでこういうことはありません。もちろん通じないで顔をしかめられる、ということはあっても、馬鹿にするような人は一人もいません。まぁ僕達日本人からしたら至らないと思わざるを得ないサービスが各所にあるわけですが、そういうことも含めて全面的に寛容なのです。こういうところは生真面目過ぎる日本人も少しは見習わないといけません。
海外に行くというのは、その地を愉しむことができるというメリットがあると同時に、自分が住んでいる国がどれだけ素晴らしいのかをきちんとしる良い機会でもあります。一粒で二度美味しいのです。だから僕はこれからもバンバン海外に打ってでます。将来的には100カ国を制覇できるよう、これから布石を打っていきたいと思います。
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【MDRT世界大会シリーズ】英語が出来ると褒められる日本人


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※世界中の保険業界の代表選手が集まるMDRT Annual Meetingに出席するため、米国はフィラデルフィアとニューヨークに滞在していました。に関する思考の徒然をここ1週間ほど続けたいと思います。
世界中から8000以上もの保険マン/ウーマンが集まるMDRTアニュアルミーティングに参加して毎回感じることは、日本人は英語弱者だということです。今回もそうでしたが、世界では英語を話すことが本当に当たり前になっています。仁川空港のスタバのお兄ちゃんやDutyFreeのお姉ちゃんはネイティブに近い英語力を持っていましたし、アメリカに参集した大半の国の人たちも、英語を苦手とはしていないようでした。僕は昔から英語学習に力を入れていたこともあり、バックパッカー中に必要な会話程度なら問題ないのですが、やはり専門用語が飛び交うセッションともなると厳しく、日本語通訳に頼らざるを得ませんでした。スパイダーマンもストーリー知ってるからなんとかなりましたが、細かい会話は全然ダメでござんした。。
『英語話せるんだ、すごいね!』という褒め言葉は、『日本語話せるんだ、すごいね!』という言葉が日本人にとってとても失礼なように、実は世界の人に対してはとても失礼に当たります。が、日本人から世界の人にこの言葉を言うことは有り得なくても、世界の人から日本人に言うことはよくあるようです。事実、僕はしょっちゅう言われます。『どうやって英語勉強したの?』、『なんでRaohは英語できるの?』など、こっちが質問したら失礼だろう、と思うような褒め言葉をバンバンいただきます。これ、ほんとは日本人として恥ずべきことなんですがね。。
さて、とはいえ、これはこれとして活かすことが重要ではないかと思ったのが今回の一週間でした。世界で英語が出来ることは当たり前、しかし日本では未だにすごいこと。これはつまり、ある人にとっての当たり前がある人にとってはすごいことであるということです。またそれは情報なり能力のアービトラージ(=裁定取引)であって、それを持つ当人が他の人間に比べてポジションや利益なりを多く得ることが出来るということではないかということです。
ある運動選手は、とにかく『オリンピックに出たい!』と考えました。しかしそう思い始めたのが中学生になってから。幼年期に質と量両面における経験を必要とするメジャーな種目では、太刀打ちができません。結果、彼女が選んだのは乗馬でした。相対的に選手の数が少なく、またそれゆえに一流のアスリートが他のメジャー競技に行ってしまって、そこそこ戦えるレベルの競争相手しかいない乗馬の世界での努力を、彼女は選択しました。結果、彼女は遅れたスタートを見事挽回し、オリンピックに出場しました。『オリンピックに出る』という目標から逆算した結果の土俵選びで、彼女は勝利したのです。戦略レベルでの勝利と言えると思います。これがフィギュアスケートやバレーボールだったらそうはいかなかったでしょう。
僕が帰国子女であったならば、ビビリな僕としては日本の会社に行きます。外資系には日本語と英語を苦もなく両刀使い出来る人が大勢いる一方で、日本の会社にはまだまだ『え?羅王くん帰国なの?すごいね!』と言ってくれる風潮があるからです。自分自身が珍しくもなんともない環境で徒手空拳格闘をやらされるのと、自分自身がその生い立ちからして祭り上げられる環境に、強烈な長距離法を持って乗り込むのとでは、全く生き残る率が変わってきます。努力をしたくない、ということではなく、自分が相対的に優位に立てる環境に身を置くということは、戦術レベルでの戦いの前に戦略レベルでの勝利を収めるための必須要件ではないかと思うのです。グローバル化を半ば強要される昨今において、『周りは英語出来ないけれども自分はラクラクできる』という状態は、企業戦士においてとても重要な要素でしょう。これが外資であれば、企業『戦死』になっても不思議ではありません。だってみんな英語出来るんですもん。おしり拭けるからって、その人のこと誰も評価しないですよね。。
ちなみに、深海魚は浅海に浮かんで生息しようとしたら、熾烈な生存競争に巻き込まれます。深海魚は深海魚でいるがゆえに、あんなノロノロした動きでも生存を許されるのです。深海魚が浅海で生きていこうとしたら、急激に運動能力を上げるか、急激に巨大化するか、急激に毒化するかのいずれかしかありません。そのどれも、現実的ではありません。
世の中はグローバル化、資本主義化によってフラットになる、とはよく言われる論調ですが、はっきりいってまだまだそんなことはないと思っています。いやむしろ、フラット化が進むのはその通りとして、その過程において非常に多くのアービトラージが発生していると言えるのではないかと思います。フラット化が進めば進むほど、何かと何かのアービトラージを見つけ出す能力というのが重要になってきているような気がするのです。
全ては絶対的ではなく、相対的です。反推しメン的言い方で自戒したい気分ですが、こじはるや大島優子があれだけ目立つのも、AKB48の中にいるからであって、もし彼女らがエビちゃんや押切もえと同種のモデルとしてデビューしていたとしたら、今のような注目のされ方はしていなかったのではないかと思います。AKBが日本中から注目されるのも、トップ女優が必ずしも完全な美形ではないのも、必ずしも彼女らが美しさのみで勝負していないからだ、そんなことを言ったら怒られるでしょうか。ちなみに個人的見解ですが、僕はこじはるがAKBじゃなかったとしても、両手を上げて支持します。
これを読んでくださっている貴方が世間とのアービトラージを享受できる場所や分野、それはどこでしょうか。
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【MDRT世界大会シリーズ】こじはるは○○○しない理論


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※世界中の保険業界の代表選手が集まるMDRT Annual Meetingに出席するため、米国はフィラデルフィアとニューヨークに滞在していました。に関する思考の徒然をここ1週間ほど続けたいと思います。
古来より、人は知らないこと、分からないこと、見えないもの、理解出来ないものに対して、必要以上に畏れを抱いてきました。地球が丸いことが証明されるまでは、地平の先に巨大な滝壺があって船はそこから全て流れ落ちると思われていましたし、人智を超えるものに関しては、神の存在を以てその理解の促進をしようとしました。
過度に畏れることというのは、同じ人間に対しても起こりえます。『川越シェフは毎日朝からフランス料理を食べてるんだろう』とか、『こじはるはう○こしない』といった類いの畏れです。これらの畏れは、相手を神聖化する一方で、そこへの距離や興味に関して半ば思考停止をもたらします。川越さんは、こじはるは違うよね、みたいな。努力したってああはなれないよね、みたいな。
アメリカ勉強関係ということで思い出したのですが、僕はMBAに強烈な憧れを持っています。なにせメアドの一部にmbaと入ってるぐらい。が、生命保険という仕事をしている限り、MDRTのような組織に関わるのでなければ全くと言っていいほど英語ともMBAとも無縁になります。代わりに、『MBAホルダー』という称号を持つ人間に憧れが出てきました。
で、幸運なことに同じ勉強会の仲間の仲間にMBAホルダーの方がいらっしゃるということで、忙しいのを承知で無理やり時間をもらって逢ってきました。『こじはるはう○こしない』理論よろしく、『MBA持ってたら仕事困らないですよね?』とか『MBA持ってたら悩みなんて全部解決できちゃいますよね?』とか、『MBA持ってたら未来も見えるし何でもできますよね?』みたいな、自分でもアホだと思ってるし答えも分かってるはずの質問をバンバンしましたが、答えは予想通り。
『んなわけないでしょ・・』
今日お逢いしたYさんは憧れの名門大のMBAホルダーなのですが、とても気さくに色々なことを話してくれました。え?そこまで細かくて大丈夫?ということまで、初対面の僕に話してくれました。曰く、
『若い女の子が考えるみたいに、結婚したら必ず幸せになれるかといえば、結婚してる人なら誰でもそうではないと分かる。同じように、MBA持ってれば仕事に困らないとか悩みがなくなるかといえば、それもやっぱり必ずしもそうだとは言えない。全然全然全然言えない。むしろ、MBA持ってるだけで、入門したてなのにいきなり幕内力士扱いで土俵に乗せられるようなもので、実はそのラベルゆえにかなりきつい。』
なるほどなるほど。つまり『こじはるはう○こする』し、『MBAホルダーでも悩む』ということのようです。知ってたけど。でもそれを直接本人の口からお聞きすることができたのは良かった。何故か『安心』しました。確かにめちゃくちゃ優秀な方なのだろうと思われる所作でしたが、同じ人間なのだということも改めてわかりました。
こういうことって実は結構大事なのです。
人は自分の知らない世界に関して、前述の通り過度に畏れます。暗闇の中でもたった3m先を照らしながらずっと走れば、太陽が上っていなくともフルマラソンを完走出来るのに、ハナから42.195km先を照らそうとして、そしてその不可能を勝手に悟るのです。僕にとっては最近の例で言えば、戦略コンサルの方や今回のMBAホルダーの方というのが、その具体的な畏れの対象でした。なんだか分からないけど畏れていたのです。そして実際に逢ってみたら、意外と同じ人間だったのです。(もちろんロジカルさとか知識とかは全然違いますが、念のため)
人の成長が妨げられるのは、こういった過度な畏れが原因である場合がかなりあります。勉強会でもよく話すことですが、年収2000万の人と年収1000万の人の能力差は、倍ではなく実は1.1倍程度しかなかったりします。しかし感覚的には倍ぐらい優秀なんだと思ってしまうようです。そしてそれは、年収1000万の人が2000万の人に追いつこうとする意欲をそぎ落とすのに十分な差となってしまいます。実は大したことないのに、人はその畏れ故にチャレンジをやめてしまうのです。
今日Yさんとお逢いしたことで、上記のように自分持つ畏れについて良い形の省察を行うことができました。Yさん、有難うございました!
ま、僕は『こじはるはう○こしない』とまだ信じてますけどね。その分さっしーがしてるんだよきっと。
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【MDRT世界大会シリーズ】安易にラベルを貼らない


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みなさんこんぬつわ〜、ご訪問有難うございます、羅王のブログです。驚異の偏差値『8』を叩き出した高校時代から始まった『The 補欠人生』にピリオドを打ち、8桁超えの自己投資を通じて人生のレギュラーを目指す軌跡と奇跡を備忘録兼ねて徒然なるままに記しました。大体30分で書いてますので瞬発力重視なのはご愛嬌。。貴方とのご縁に一片の悔いなし!
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※世界中の保険業界の代表選手が集まるMDRT Annual Meetingに出席するため、米国はフィラデルフィアとニューヨークに滞在していました。に関する思考の徒然をここ1週間ほど続けたいと思います。
ようやく本題のセッションの内容について今日は触れたいと思います。アニュアルミーティングの目的は、MDRTの理念である’Whole Person’(完全な人格)を以てお客様に貢献できる人財をつくることであり、それに即したセッションが組まれます。逆に保険の細かい話はほとんど出てきません。全人格の向上というゴールのない挑戦をしています。難しい・・・
その中で、今回印象深かったセッションがあります。生まれた我が子が『何らかの理由で発育が遅い』まま子育てをせざるを得なかったT氏のお話です。彼も現役の保険マンです。
T氏は息子が生まれてしばらくして、いつまでたってもしゃべりもせず歩きもしないことに気づきました。いくら検査をしても、『原因は分からないが何らかの理由で発育が遅れている』と、答えになっていない答えを聞かされたそうです。病名が付けばどんなにラクだったか分かりません。しかしどの病院に行っても、『何らかの理由』が何なのか、分かることはありませんでした。
病気ではないのでT氏は我が子といつか来るその日を信じて教育に力を注ぎます。注ぎますが、我が子はそれに応えられるほどの成長を見せません。やはり『何らかの理由』、つまり病名を求めますが、どれにも当てはまらない。。いつまでもいつまでも、何度も何度も調べますが、その度に出てくるのは全て同じ答えです。
T氏と奥様は、この原因の分からない、難病ですらない状態の正体を追求すること(=プランA:答えを探す)をやめ、息子が確かな前進を見せるまで何度も何度も何度も何度も何度も何度も、その年齢の子が出来るはずのあれこれを息子に教え続けました(=プランB:ただ前に進む)。その子は明らかにハンデがありながらも少しずつ成長し、兄弟や友人の力を借りながらついには好きなことを見つけ、スポーツに励み、大学にまで進学しました。
最後にその息子さんがステージに出てT氏と奥様と一緒に立ったとき、スタンディングオベーションになりました。
この話は、様々な教訓を示唆しています。自分にしろ我が子にしろ何か身体の不調があったとき、人はすぐに病名という『ラベル』を求めます。『ラベル』は、貼る側にとっても貼られる側にとってもとてもラクなものです。それがあるとラクにその状況をカテゴライズできるからです。診断する側から見たとき、幾本にも分かれる患者の症状をある程度区分けすることは、医療の効率化の意味でも必要といえば必要です。また患者自身や家族にとっても、自分の状態を総称してなんというか、その単語があるかないかで、精神的な不安定感が幾分解消されます。平たい話、ガンのような症状でガンのような検査結果があり、ガンのような進行状況なのであれば、人はそれに『ガンというラベル』を貼ることを求めるのです。自分の住んでいる場所に、良いにしろ悪いにしろ名前が欲しいのです。
が、これにはひとつのリスクを伴います。すなわち、そうではない可能性や、他の解決策を探す道を潰してしまうというリスクです。ラベルを貼ることによって、ラベル以外の選択肢が、必ずではないにしてもかなりの確率で消滅してしまうのです。『あなたの息子さんは○○病です。だから普通の生活はできませんしできるようになりません。』ともしこのT氏の息子さんが診断されていたとしたら、果たしてこの両親はここまでの努力を出来たでしょうか。
病気以外の例として、学歴があります。
『オレは高卒だから』というラベルを自分で貼った人がいたとします。学歴に関する是非やその価値観は別として、一般的に考えて左記のラベルの続きに『肯定的思考』が続くことは、今の日本においてはあまりありません。否定的なラベルを貼った(貼られた)人は、本来持っている力を開花させることなく、どんどんとそのラベルが意図する方向に沿った能力に近づいていきます。コップにノミを閉じ込めて蓋をすると、ジャンプして頭をぶつけ続けたノミはいずれ蓋を外しても蓋があった高さまでしか飛ばなくなる、とはよく言われる例ですが、まさにそのラベルの存在そのものを理由あるいは終着点として、人の能力はどんどんそこに収斂していきます。
私の友人は先日、実は危なくある病名をつけられそうになったのですが、それ以来、なんだかそれに罹患しているような気になってしまう自分がいるとのことでした。調子が悪いときも機嫌が悪いときも、『オレは○○病だからしょーがないじゃん』と、今までするわけもなかった言い訳をし始めている自分に気づき、頭を振って追い払ったそうです。ラベルというのは、プラスの場合は良いですがマイナスの場合は恐ろしい結果を生む場合もあります。安易なカテゴライズが、それ以外の可能性を潰すのです。
僕にはある瞬間から、『原因不明だけど文章が面白い人』というラベルを貼っていただく機会に恵まれました。自分ではそう思っていなかったのですが、そういうラベルを貼られているうちに、なんだかそういう気になってきました。そんな気になって書き始めた文章は、また新たなラベルを引き寄せました。『すごい努力をしているから文章が面白い人』というラベルです。なんだか自分がすごい努力をしてそこからのアウトプットを出している気になってきました。そうしたらそういうラベルの意図するものに近い文章になってきました。
ラベルというのは、良いラベルも悪いラベルも、当人と周り双方にとって等しく『ラク』なものです。ただし、その貼る種類を間違えると、結構とんでもない目にあったりします。またその逆であれば、人生がよく分からないけれども好転している、という感触に巡り合うことができます。
どの種類のラベルを貼るか、それはラベルではないのか、飲もうとしてる眼前のビールが黒ラベルなのか、しっかり見極めたいと思います。
そういえば、『色が白くて二の腕がぷにぷにしている子が好き』とこじはる(=小嶋陽菜)を好きになりはじめてから公言してましたが、そういうことばっかり言ってたら、色が白いわけではないけど可愛いともちん(板野友美)などの神クラスを愛することが出来なくなってしまっている自分がいました。修正して全方位外交で臨みたいと思います。
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