他人を騙してはいけない、けれど○○は騙して良し


他人を騙すと地獄に堕ちるが、自分を騙すと天国に行ける、最近漠然とそんなふうに思うことがしばしばです。

当然のことながら、他人を騙してはいけません。これは当たり前。昔から言われている通りです。でも全人類全員を騙しちゃいけないのかというと、僕はそんなことないんじゃないかと思っています。たった一人だけ例外がいて、それが自分です。

これからチャレンジするマラソンに例えます。人間の身体は、肉体の限界より精神の限界が先に来ると言われています。実際に走れる距離はもう少しあるにもかかわらず、精神、より正確に言えば脳が身体にストップをかけるのです。これ以上走ったらレッドゾーンに入るという手前のイエローゾーンぐらいで、『もうやめといたらええやん?』と脳が身体に声をかけます。これが疲れやめまいや痛みです。この脳の声が聞こえてきたときに、それを遮断したり別ルートを迂回させたりして肉体の本当の限界まで走らせる、これが良い意味で『自分を騙す』ことの出来るレーサーがやっていることです。音楽を聞くことで気分をノセたり、補給食を取って脳の信号に対して『大丈夫だよ』と言ってあげたり、出てくる弱音を(そう思ってないのにとりあえず)全て強気のメッセージに互換したりして、自分を騙しています。

ボクサーは試合前もしくは試合中、特に相手が強豪で苦戦が予想される場合に、時に相手をタコ入道やアニメキャラクターに例えて見るということをします。強そうな相手のゴツイ顔を見るよりは、可愛いポケモンの顔をしていてくれた方が、まだ戦いに余裕が出そうに思えるからです。実際僕も空手の組手において、相手が(実際には高位の帯にも関わらず)忘れて白帯を身につけていたりすると、容易に勝てたりします。相手自体は変わらないのに、相手の白帯によって自分を上手く騙すことができたからではないかと考えています。

人間の防衛本能というのは、なるべくリスクを侵さず、一度手に入れた安定をなるべく変化なく手放さないように働きます。原始時代の本能をそのまま引きずって現代に至ってるのです。そしてそれは、飢餓に困ることのない現代日本において、無意識であればあるほどやや合理性を欠くような決断をしてしまうという現象を生んでいます。

社会構造が変化しつつあるのに未だに近い過去の栄光にすがって『我が社』の復活を盲目的に信じる大企業社員は、何かを得ることに対する希望よりも、何かを失うことに対する恐怖をより多く感じるようにプログラムされています。だから自分を好意的に騙すことで、得ることの希望<失うことの恐怖ではなく、その逆であることを言葉を始めとするテクニックで認識を変えて行かねばなりません。

スキーでスピードが出過ぎてしまうと、人は身を守るためなのか、反射的に体重を後ろにかけてしまいます。そして実はこれが致命傷。スピードはどんどん増していって、自らの命を幾何級数的に死や怪我のリスクに近づけていきます。実はスピードを抑えたければ体重を前にかけるべきなのですが、それはそうした方が安全であると自分を騙さなければ、本能に負けてどんどん後傾していってしまいます。

プラシーボ効果を上手く使えば、ただのビタミン剤が、どんな病気も治す良薬となります。本当に効果がある最新の薬であると脳が信じ込めば、実体がどうであれ、薬を飲んだ身体は目指すベクトルに向けて全力で治癒活動を開始するのです。脳を好意的に騙すことで、病気すらも治ったり、あるいは近づいてすらこなかったりします。

自分を好意的に騙すことは、自らを奮い立たせ、全力を出させ、限界を超えさせることです。そしてそんな状態でチャレンジしたほとんどのことは、いつのまにかあれよあれよというまに自分でも信じられないぐらいのスピードで達成出来たりします。人間って、そんなもの。人間は案外アホなのです、いい意味でも悪い意味でも。

これからハーフマラソン、極真試合、フルマラソンと2ヶ月程度で大盛況なのです。なのですが、全て肉体の限界に挑むという大テーマを包含しています。自分に対する騙し方の巧拙と質と量がこれからのチャレンジの成否を分ける気が強烈にしているので、とりあえず明日から自分をどんどん騙していきたいと思います。今日は限界なのでこのへんで。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!

我が人生に一片の悔いなし!

バンバン比較せよ


比較はいけません。

比較はいけません。

比較はいけません。

ある程度大人になると言われることです。比較からは何も生まれない、比較すると不幸になる、自分だけの道を見据えて他人は気にしないように、と。一面これは本当であるように思いますが、徒競走から学芸会、受験、果ては就職そして社会人生活に至るまで、比較を何度もされて大人になるのに、あるとき突然比較することを否定されるのも何だか変な感じがします。が、比較が良くないのは僕も知ってます。

さてさて、この言葉の本当の意味を、多くの人は履き違えているのではないかと僕は思います。ただ、あるものは確かに比較をしないほうがよくて、あるものはバンバン比較をすればいい、そういうことなんです。範囲を明確にすれば良い。では何を比較しない方が良くて、何を比較した方が良いのか、それは下記です。

結果:×

努力:○

誰が昇進した/しなかった、は結果論です。運も味方したかもしれないし、タイミングもあったかもしれない。派閥の問題かもしれません。『半沢直樹』を観てそして原作を読めばこのことはよくわかります。だからそれを比較することは、Apple to appleになりません。比較の対象とパラメータが複雑過ぎて比較のしようがないのです。

反対に、努力であればある程度比較可能です。いやほんとは無理ですよ、無理ですけど、少なくとも結果よりはよっぽどApple to appleな感じがします。仲の悪い誰かと誰かの努力を比べることはそんなにカンタンではありません。しかし仲の良い仲間内の切磋琢磨であれば、努力の比較は大いにすべきです。

大切なのは、結果の善し悪しを比べることではなくて、そこに至る過程においてどれだけ自分が努力できたかの指標やベンチマークとして、他人の努力もカウントしてしまうということです。その人どうこうではなく、あくまで自分の努力の質と量をコントロールし、逓増させるためです。そうして本物の努力が無意識に出来るようになったときに、本物の結果というのはいつの間にか付いてきたりします。

僕は今、走ることに関しての努力の見せびらかしを仲間内でやってます。やれ今日は何キロ走った、やれ今日は何分で走ったなどと、自分がどれだけMかを毎日競ってフェースブックでシェアしあうわけです。ただのアホです。

しかしコレが効くんです。やる気が出ないときも、人の努力の量を見るとやる気が湧いてきます。疲れてるときも、もっと疲れてる仲間の努力を見るとこんちくしょーと思って動くことができます。努力していることを名言出来るようになるには、『きちんとした努力』をしていないとカッコ悪いというエセ漢気根性が働いて、結果的に身体を動かすことに成功します。なんだかんだ言って、人は他人に努力に影響されることで自分も努力出来るのです。そしてそれに付いてくる結果は、概して努力の質と量に相関するのですが、一方で運やタイミングなど偶発的外圧によって振れ幅が大きくなることもあります。だから参考になりません。

努力の比較はバンバンしてOKです。努力の頻度や濃さ、パターン、そして異常さなど、どんどん比べれば良いでしょう。ただしそこから派生する結果については無視です。そんなものを比べるから邪な心が生まれます。努力はウソをつけず、地道でしかなく、ごまかしが利かないものです。だからこそ比べる価値があります。

今現在、自己顕示欲の強いおバカな仲間たちと努力の張り合い、意地とメンツの張り合いをしています。これが超楽しいです。なぜなら結果の比較ではなく、努力の比較をしているから。努力の比較は足の引っ張り合いではなく、ケツの蹴り合いになります。蹴られた以上の強さで相手のケツを蹴り返すのがまた快感。

そんなわけで、先人の教えは大切なことですが、敢えて努力の比較はバンバンしていきたいと思います。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!

我が人生に一片の悔いなし!

祝 イチロー選手 4000本安打!


やはりイチロー選手はハンパないですね。ついに日米通算4000本安打を達成しました。何がハンパないかというと、記録はもちろんのこと、達成した後のインタビューでの以下のセリフ。

『こういうときに思うのは、別にいい結果を生んできたことを誇れる自分ではない。誇れることがあるとすると、4000のヒットを打つには、僕の数字で言うと、8000回以上は悔しい思いをしてきているんですよね。それと常に、自分なりに向き合ってきたことの事実はあるので、誇れるとしたらそこじゃないかと思いますね。』

『これからも失敗をいっぱい重ねていって、たまにうまくいってという繰り返しだと思うんですよね。バッティングとは何か、野球とは何か、ということをほんの少しでも知ることができる瞬間というのは、きっとうまくいかなかった時間と自分がどう対峙するかによるものだと思うので。なかなかうまくいかないことと向き合うことはしんどいですけど、これからもそれを続けていくことだと思います。』

何を言うかより誰が言うかが大事、そう言われることもしばしばですが、口から出てくる『何』自体が究極まで高められた一つの例だと思います。これほどの選手がこれほど『失敗』について言及するのは珍しいのです。

多くの成功者は、事実はどうあれ公の場では『こうしたら上手くいった』という事例を話しがちです。体裁が整い、とっても格好よく聞こえるからです。また聞く側もそれを鵜呑みにしがちです。そういう姿勢で聞いた方が、自身が美談として納得しやすいからです。しかしそれは氷山の一角、いや上澄み数ミリに過ぎないレベルの薄い話であり、本質ではありません。大体において成功とは、『たまたま』発生するもので、しかしその『たまたま』を人為的に起こすことができた人が、成功者となります。

『たまたま』をより多く、より確率高く発生させようと思ったら、『たまたま』に遭遇する可能性を高めなければなりません。そのためにはそれ以外との遭遇、つまり失敗との遭遇をたっぷりと許容する必要があります。おなかいっぱいになるぐらいに。そしてそれらを効率よく丁寧に捌いて人畜無害にしなければなりません。

チャレンジに失敗は付き物です。失敗すること自体は防げません。しかし防げなくても対処することはできます。失敗の質と量とそれらに対する対処の仕方、スキル、在り方が成功を決める、イチロー選手が言っているのはそういうことだと思いますし、僕が日々色々なことを思い知らされているトップパフォーマーたちの言っていることも同様です。疲れている時にどうやる気を出すか、怪我をしているときにどうパフォーマンスを安定させるか、物事を達成して有頂天になっているときにそうならない方法はなにか、プライベートでイヤなことがあったときにそれをプレーに持ち込まない方法は・・・など、どの分野のどれにおいてさえ、一度や二度はイチロー選手と言えど失敗しているはずだと僕は勝手に思っています。そしてその失敗から次へのアクションを必ず学び取っているはずです。

成功している人にもし質問をするとしたら、こういう質問はどうでしょう。

『田中さんは○○に関してどうやってそんなに上手くいったのですか?』、これが今までの質問だとしたら、恐らくイチロー選手のコメントから察するに的外れなのでしょう。個別具体の質問なので、その他に転用できるような答えが出てこない可能性もあります。それよりも以下な感じはどうでしょう。

『田中さんは○○以外に関してどうやってそんなに失敗し、そこから何を学んで逆転の倍返しをしたのですか?』、といった失敗への取り組み方、受け止め方を訊く。そうすると横展開縦展開が可能な失敗に関するマネジメント術を学ぶことができます。そうすれば後は出来るだけ多くのチャレンジをして、バンバン失敗するだけ。失敗マネジメントさえちゃんとしていれば、人はどこまでも前に進んでいくことができます。

失敗を拒絶する日本社会よりも、失敗を許容するアメリカ社会の方が活気があると多方面において言われるのは、成果を出し成功するという観点から考えたときにどちらが最短距離に在るのかということが証明されているからではないでしょうか。3割バッターは、7割失敗しているのです。10割を目指したければ、数本のヒットが最初に出た後に二度と打席に立たないという選択肢を取るしかありません。

オラそんなこと~イヤだ~。イチロー選手おめでとうございます!そして夢をありがとう!!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

我が生涯に一片の悔いなし!!!

『前門の虎、◯門の狼』な富士登山列伝その4〜ツラい極値を知れ〜


富士登山の話4回目。

しつこいようですが、思っていたよりも全然ツラかったです。

頭ズキズキ、吐きそう、肛門が破裂しそうな状態で数時間歩かされると、人は思考能力の底辺の限界らへんまで頭が悪くなります。

よって僕がとった行動は、下りの大半を『フレディ・マーキュリー(byQueen)』のマネをしながらシャウト気味に駆け下りる、という奇異なる、しかし本人は至って真剣なアクションでした。

本当にツラかった。山をナメていた。ごめんなさいよマウントフジ。謝ったの何回目でしょうか。

Read more

『前門の虎、◯門の狼』な富士登山列伝その3〜ほんの先っちょのはなし〜


繰り返しになりますが、富士登山はかくも厳しいものでした。

何十回も登ってる人もいると思いますが、信じられません、あんなツラいものを。有り得ない。。

88kgのこの肉肉しい肉体では悲鳴が上がるのも当然なのか、高山病による頭痛と吐き気とは別に膝も痛め、久々の満身創痍状態に突入しました。

Read more

『前門の虎、◯門の狼』な富士登山列伝その2〜山頂ビジネスと地上ビジネス〜


富士登山についての報告および感想2日目。諸事情(トラブル)あり更新が滞っていたことお詫びします。

五合目の富士吉田口という最もポピュラーな登山口から登ることになった不思議なことですが、わずかに、しかし確実に登るごとに気分が悪くなっていくのがわかりました。

頭痛をはじめとする高山病のせいだけではありません。僕は五合目に着いた時点で前日の寝不足のため軽い高山病にかかっており、そこから先の高度において、この症状と付き合って行かざるを得ないことに関しては覚悟を決めていました。

覚悟を決めていた方面ではなく、覚悟を決めていなかった方面に悩まされ、イライラすることになったんです。何故か?それは、

『店員の態度が高度を増すごとに悪くなっていったから』

前エントリにも書きましたが、本来店員『さん』とすべきところです。しかし、もはや店員と欠かざるを得ない程、態度が悪く感じられました。

頂上にはご来光を見るために少し早めに着きました。少しといっても2時間前ぐらい。だから相当待つ必要があります。

しかし、開きそうでなかなか開かない山小屋の中を除くと、口には出さないけれど『しっしっ』と追い払う態度のお店の人。

更に開店してからは、お客さんを早く回転させたいらしく、愛想ゼロで采配していました。ほとんどのお客さんが初めてなはずなのに、『うちのルールも知らないのか』といった態度で辟易しました。

ルールが分かるはずもない外人さんが佇んでても、pleaseもつけずに’Sit down!!!’と大声を出す始末。これじゃ世界遺産に認定されても一回限りのお客さんになっちゃうよ。

極めつけは、若手にーちゃんの態度。味噌ラーメンを持ってきたにーちゃん、お客さんがそれを誤ってしょうゆラーメンだと思って『しょうゆくださーい!』と声をあげたら、『味噌だっつってんだろ』と曰う始末。

客を客とも思わない圧倒的ゼロの気配りがそこには顕在化していました。ちなみにしょうゆラーメンと味噌ラーメンには、見た目も味もほとんど分からないほどの差しかなく、どちらを食べてもほぼ同じ感触でした。

トイレも同じく高度を増すほどの汚くなり、食事中の方はごめんなさいですが、便器にアンモニアが付着して塊となってしまっていました。水が貴重だからというのはわかりますけども・・・

さて、ここで疑問に思わねばならないのは、何故こういうことが起きるかということです。

ことは一個人の心がけや資質の問題、かもしれませんが、そうではないかもしれません。そして僕は、そうではない方に考えを巡らせています。

このように高度が増すごとに相対的にサービスが悪化していく原因として考えられるのは、高度と相関してお店その他の独占状態が強化されていくからだと思われます。

5合目にして早くも警告がありました。『富士山には水と電気がありません。特にお水は貴重です。ここまで毎日5万円かけてタンクローリーでお水を運んでいます。(だからあんまり飲むな)』。しかし5合目は広く店舗も多いため、店員さんは皆笑顔、雰囲気も非常に良い感じでした。

7合目が宿でした。『いらっしゃいませ~』が聞こえませんでした。どこか流れ作業的に感じる宿泊手続きと夕飯を済ませて、大人しく寝ました。

7合目から8合目までは5合目ほどではないにしても、僕たちが泊まったところ以外にもそこそこお店があったので、違和感はありつつも不快になることはありませんでした。高山病の症状の方がずっと不快でした。あ、そういえば、ご飯の時にお茶は一杯しかくれなかったけど。

9合目を超えて10合目、すなわち頂上に着くと、上述したような参上でした。地上において、態度が悪く味が粗雑でトイレが汚いお店というのは、きちんと潰れます。うっかり一度目に入ったとして、二度目は誰も行かないからです。あるいは悪口コミが蔓延し、誰も寄り付かなくなるからです。

しかしこの頂上のお店は違います。恐らく、登山期間中はずっと満員です。どんなに腹が立っても、どんなに臭いにイライラしても、どんなに総じてムカついても、富士山の山頂でモノを食べたり飲んだりしようとすれば、そこのお店しかないのです。

『独占状態の強化は、それと反比例してサービスの低下を招く』、その好事例をまざまざと体験させられた感覚でした。グズグズするな、早く食え、食ったら早く出てけ、俺たちの手を煩わせるな、など、声に聞こえてこそこないものの、そのメッセージを雄弁に語る無表情フェイスで対応してくれる素敵な店員さんたち。

この人たちは、富士山が世界遺産に認定されて、この山での経験を以て日本の全印象を決める外国人の人たちがこれから押し寄せてくるであろうことを知っているのだろうか??

繰り返しますが、『そういう環境』にいるから、店員さんたちが『店員』に成り下がるほど態度が悪化したのだと僕は仮定しています。富士山頂のお店が仮に地上にあったとしたら、彼らは否応なく他のサービスと笑顔が満点のお店と競争することを強いられ、他店と同じかそれ以上の水準まで自らを高めなければならない境遇に置かれます。

山頂ではそのための努力の必然性が全くなく、何もしなくても高回転高単価の最高のビジネスが出来るため、そこに前向きなインセンティブは働かないのです。

別に富士山頂のお店に限った話ではなく、僕たちも他山の石とすべき教訓がここには含まれています。

僕たちが何かの分野において、ヒト、モノ、カネや情報のいずれかもしくは二つ以上が他者に対して独占状態(かそれに近い程度)にある場合に、こういった他者への無配慮無関心、自己改善努力の形骸化は起こりえます。

社長になったら会社に関してヒト、モノ、カネ、情報の四つ全てにおいて他者に対して優位に立ちます。それを振りかざして外圧のみで仕事をぶん回すようでは、遠からず取締役会にて解任動議が出されることでしょう。

親という立場は、多くの点において子供に対して独占的な立場を持っています。子供時代に権力を振りかざしまくった親は、大きくなって知識も腕力もついてきた子供から見放されます。子供時代に山頂にあったお店が、子供の成長にしたがって高度を下げて、最後は地上での戦いとなるからです。その時になって卑屈に笑顔と配慮を身につけても、もう遅かったりします。

ビジネス界においても、ある分野で独占的な地位を得た企業が、その地位の源泉となる競争優位を失った瞬間に、それまでに倍する速度で堕ちていくといったことはよくあります。そんなんだったら独占的地位なんてない方が良かったんじゃないの?と傍目には思ってしまうほど、坂を転げ落ちていってしまいます。日本の電機メーカーしかり、コダックしかり。。

山頂ビジネスは、地上ビジネスに比べて高収益であるものの、強さとしては大したことがないのです。それでも生きていけちゃうから。

自分がいま置かれている状況、地位、得ている能力が山頂ビジネスなのか、地上ビジネスなのか、特に何らかの利益を生んでいると思える分野に限って、どちらに分類される状態なのかをしっかり考えないとなと思います。僕も結構山頂ビジネスでは調子にのる方なので、てへ。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!

我が人生に一片の悔いなし!

『前門の虎、◯門の狼』な富士登山列伝その1〜日本一の三角締め〜


先日生まれて初めての富士登山をしてきました。

結論から言うと死ぬほどツラかったです。

『死にそう』とは冗談でよく言う言葉ですが、現実的にその言葉が意味を持つ手前まで行っていたような気がします。

こういう極限状態の経験は大きな学びになるので、今日から少し登山シリーズにてまとめてみたいと思います。今日はジャブで。

Read more

なりすましにご用心


先日大爆笑したと同時にうーん、と唸らされた我が家の三歳児の話。娘から注意されました。

娘:『あのね、ごはんのときはひじついちゃいけないんだよ、ぱぱ、わかってる?』

娘:『あのね、パンばっかりたべてちゃ、びじんさんになれないんだよ!おやさいとね、くだものがびじんさんになれるんだよ。』

娘:『パンはね、あまいのばっかりたべてちゃわるいこになっちゃうんだよ。プリキュアになるにはごはんぴっかぴか(=完食)にするのがだいじなんだよ!』

など、まぁよくそんなこと知ってるなと、あるいは語れるなということをペラペラと喋るようになった娘さんに聞いてみました。

羅:『ふーん、よく知ってるね。それ、ママに教えてもらったの?』と聞いたら、

娘:『ううん、ぜーーんぶじぶんでかんがえんだよ!すごいでしょ!』

・・・

・・・

なるほど。すごい。満面の笑みで、一ミリの逡巡もなく『じぶんでかんがえた』と曰わるうちの娘さん。毎日毎日のママからの刷り込みが、もはや自分の考えになってる模様。

さて、お気づきのことと思いますが、こういうことって、実はとっても大事なことを示唆しています。

人間はそもそも模倣の生き物です。いや人間に限りません。すべからく生物は親や周りの先達を模倣することで一定レベルの生活力を身につけていきます。

大人になってからいきなり『オリジナリティを出せ!』と言われて面食らう人は多いと思いますが、それにしても模倣の組み合わせであって、完全なオリジナリティなどこの世に存在しません。ほんのわずかな天才が見つけるほんのわずかなもの以外は。

明らかに人から聞いた話であっても、あるいは更に又聞きだったとしても、自分の意見として実しやかに述べてしまう、これはとても大切な能力です。

ポイントは、そう思い込めていない内容だとしても、自分にとって未来にとって良かれと思えるものであれば、そのように振舞ってしまうということです。俗に言う、’Fake it until you make it’みたいな感じ。

痩せる自身がなくても、痩せることが人生を変えるインパクトを持つと、さもダイエットに成功した人かのように言い切るのはその一つの例です。売れないセールスがアファーメーションをしたり身なりを整えたりして、トップセールスのつもりになって振舞うのもまた一つの例です。

よほどの虚言癖の人(=言動と行動に極端な不一致があり、しかもそれをなんとも思わない精神構造を持つ人)でない限り、それが心底からの言動でなかったとしても、言及した内容について実際に行動すべく、『言い訳の外堀』が埋まっていきます。

言動と行動がズレている状態をなんとか修正しようという引力が心と頭の中に働き、運動エネルギーを伴った方向(=言動)に引っ張られていくのです。

娘も最初は、ご飯の時にひじを付いていました。怒られました。また付きました。怒られました。

毎日刷り込まれるので、ご飯のたびに『ひじついちゃいけないんだよね?』とママに確認するようになりました。自分の口で言ったことにより、刷り込みは更に強化され、いつの間にか周りの子や時に親のひじ付きを注意するようになりました。

そして更にいつの間にか、それを最初から自分の意見として持っていたかのようにおしゃまさんは曰うようになりました。

繰り返します。『そのように』思い込めているのであればベスト。

しかし、『そのように』思い込めていなかったとしても、目指す方向を口に出すことにより、段々とそちらに近づいていくことは可能です。人間の学びの多くは、人から見聞きすることから得られます。

素晴らしい意見や見識であればあるほど、それを不確かながら、下手くそながら完全に模倣することにより、いつの間にかその素晴らしい意見や見識が自分のものになっていきます。

これはいわば人間の『なりすまし』と言っても良いと思います。なりすましてなりすましているうちに、いつの間にか本物になってしまっているのです。フェースブックの偽アカウントのように、いずれ化けの皮が剥がれることもありません。中途半端になりすましているのに、それが長ずると本物になるのです。

うちの三歳の娘ですら実行してるこの『なりすまし』。うちの場合は良い子になりすましていたわけですが、どういうわけかいつの間にかほんとに良い子になりました。

自分にも応用出来そうなので、とりあえず僕は180cm90kg12%の肉体で英語ペラペラでトップセールスで好きキライをしないおなかが6つに割れたイクメンに『なりすます』ことにします。あー遠い。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!

我が人生に一片の悔いなし!

プロの力を借りよう


昔、一人旅をしていました。

初めて旅をしたトルコから始まり、エジプト、イタリア、香港、メキシコ、ペルー、ボリビアなど、社会人になるとなかなか行けないような国を行脚しました。僕の人生を形作る最大の影響と外圧を与えてくれたのは、旅だったと断言できます。

さてこの一人旅、学生の時分に経験したものなので、当時はとにかくお金がありませんでした。

バックパッカーの多くはそんな人たちの集まりのため、日本人宿などでは、『○○から○○まで行くのに俺はこれだけ安くいったぜ』、『あーそれ、○○にするともっと安くなるんだぜ』など、とにかく旅を安くあげることが優先事項であり、また他のバックパッカーからの尊敬を得る手段となっていました。

ちなみに僕はコスト意識が甘く、一泊150円の宿に泊まっているだけで満足してしまい食事や交通費などにはそれなりのお金を使ってしまいましたが、中には強者がいたりしました。

そういう人は、食事を現地で自炊することで究極まで食費を下げ、電車は全て二等で日本のラッシュの更に倍ほども厳しいギューギュー詰めを耐え抜き、人の出費に便乗して自分の出費を下げるという、一体何にそこまで駆り立てられているんだろうと思うほど厳しい環境下に自分を置いていました。

日本ではパチンコに入り浸りだったりするのですが。月一万円で暮らせるか否かが、一流のバックパッカーとそれ以外とを分ける境界線だったように思います。

一方、学生バックパッカーをしていると、稀に妙に焦った社会人旅行者を見ることがありました。我々バックパッカーであれば1週間かけて行くところを、わずか1日で移動して半日で観光するなど、それはそれは無茶苦茶に見えたものでした。

『なんてせわしないんだ、旅の醍醐味を味わえないんだろうな、お金使っちゃってカッコ悪い』と当時は思ったものです。

社会人になり、あの焦っていた社会人旅行者たちの気持ちがようやく分かるようになりました。当たり前です。社会人は時間がありません。学生は時間だけはたっぷりあるのです。

社会人が南米などの遠いけれどどうしても行きたい国に行こうとした場合、僕が当時していたように、計画を立てずに試行錯誤を繰り返しながら非効率極まりない旅程を組んでしまっては、外せないポイントであるイグアスの滝やチチカカ湖を見られない可能性が高くなります。

どうしても不確定要素に左右されるからです。結果、旅行全体の満足感も低下することが予想されます。であるならば、事前に旅行のプロである旅行業者に学生バックパッカーの予算の数倍を払って、数分の一の時間で目的とする場所を行脚する、そういう選択肢が最上位に来てもおかしくはないでしょう。社会人は時間がないからです。

学生と社会人の例に限らず、僕たちの人生が無限の時間に満たされていて、何をいつやったとしても変わらぬ満足感を得られるなら、何をいつやったとしても構いません。しかし現実は残念ながらそうではありません。限られた時間の中で望む方向性に舵を切ることが必要になります。

社会人が旅行業者にお金を払って旅行マネジメントを依頼するのは、つまりは初心者がプロにお金を払って何かを依頼することと同義です。その対価として、再現性の高い過去の成功体験を、その価値を毀損することなく享受できるのです。

繰り返しになりますが、時間が限られている社会人に、あれこれと失敗を重ねて本質を突き詰めていく時間はないのです。

多くの人は、自分の専門分野以外は素人です。そして現代人の多くは、過去最大級に時間がなくなっているといっても過言ではありません。豊かになったはずの日本で、心から時間に余裕を持っている人というのは、そんなに多くはないのではないかと思います。

僕もそう。だからこそ、何かにチャレンジする時に、自分がもしその分野に関して素人なのであれば、まずはプロに習うことが大切です。何はともあれ、あまり潤沢とは言えない時間を更に費消しないために、また有効活用するために、プロに習うことで時間を買うという発想です。

試行錯誤もトライアンドエラーも、本質的には経験すべきだしプライスレスな価値を持っていると僕も思っています。

しかし同時に、しなくて良い苦労はしなくても良いのではないかとも思っています。毎日田植えをして収穫して玄米を精米して白米を食べている人は都心にはいません。

貨幣という価値とプロの農家の方が作った白米とを交換しています。遠くに速く移動したいからといって、自ら自動車を開発する人はいません。普通は車作りのプロである自動車メーカーのディーラーで、自動車を買って目的を果たします。

極端な例かもしれませんがそれらと同じで、専門分野以外に関しては有限な時間を有効活用すべく、プロに教えを乞う、プロの方法を模倣する、プロのコーディネートに任せるといった『プロの力を借りる』ことが必要なのではないでしょうか。

なんでもかんでも自分でやればいいってもんでもないんです。誰の力も借りずに山奥で一人で修行をして悟る、というのは、現実世界ではちと厳しいものがあります。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございます!

我が人生に一片の悔いなし!

ステーキよりもハンバーグ、そしてサブプライム


自己投資の質と量が仕事の成果とかなり強く結びつく業界なので、上記の通り8桁を軽く超える金額を今まで費やしてきたというのは何度かお話してきた通りです。

その一環でよく自己分析的なことをすることがあるのですが、いわば自分の能力と資産の棚卸で、自分が一体何を持っているのか?ということを突き詰めて考えたりします。

自分で思ったり人から言われたりするのは、手前味噌ながら以下です。『○○ぽい』とか『○○そう』と、大体アバウトな評価なのですが、うちいくつかは結構気に入ってたりします。

Read more