歳を取ると時間が早く過ぎる理由


33歳になって約2週間が経過しました。こないだ社会人になったと思ったらもう10年経ってたし、こないだ結婚したと思ったら6年経ってたし、こないだ娘が生まれたと思ったらもう4歳になるし。早い、早すぎます、時の流れ。

この時の流れですが、漠然と皆、歳を取るほど早くなるということはなんとなく実感しているようですが、じゃあそれが何故起こるんだということに関しては、そこまで注意を払っていないようです。ただ僕は歳を漫然と取っていくともうそろそろアラサーならぬアラフォーに突入してしまいそうなので、色々考えました。人生ここまでに、歳が早く過ぎてしまう理由について、示唆深い学びが二つあったので、ここに紹介します。どちらもごもっともと思える理由なので、その反対をしていけば歳を容易に取らずに済むことでしょう。

①分母が増えていくから
1歳の時は人生1年/1年です。しかし2歳になると、次の1年は1年/2年となります。となると30歳の時の1年は1年/30年であり、33歳の1年は1年/33年となります。分母が増える分、分子が相対的に少なくなっていくのです。脳の記憶容量がそれなりに一定だとすると(実際は衰えてすらいくわけですが)、確かに小学生の時の1年と、社会人になってからの1年とでは、人生に対する重みが違ってくるのも当たり前なのかもしれません。

小学生の時の1年1年は、本当に長いものでした。中学生の1年も長かったです。夏休みの1ヶ月なんて、休みが始まった当初は永遠とも思える時間が残されているかのように感じたものでした。でも今の1ヶ月はどうでしょう?休みじゃなく仕事があるからという理由はありますが、1ヶ月のなんと短いこと。もう今年が1/4しか残されていない!と嘆いてる人も多いのではないでしょうか。

②チャレンジしなくなるから
基本的に、子供時代から青年期にかけては、出来ないことばかりに挑戦する毎日を僕たちは過ごします。やったこともない積み木を幼稚園でいじり、平仮名もカタカナも九九も分からない状態で小学校に入り、高校では部活で体力の限界に挑む傍ら、サインコサインウソクサインなんてわけのわからない数式と格闘します。その間、脳には出来ないことが出来るようになるまでのプロセスががっつりと刻み込まれます。基本的にはずーっと出来ないことを続けてくわけです。その過程における苦しみ、喜び、一緒に戦った友人たちとともに、記憶は鮮明なものになります。

しかし社会人になってからはどうでしょう?多くの人が、1年目は苦しんだはずです。2年目もそこそこ。しかし3年目ともなると、結構仕事に慣れてきます。10年目になると、もはや3年目ぐらいからの延長戦上でしか仕事をせずとも、何とかなったりします。過去の貯金で食べるグライダー状態でも、会社や省庁によってはやっていけてしまう、それが社会人です。人は、昨日と同じ今日が過ぎ去ると、時間が経つごとに両者が混同され、あるいは融合してしまったまま記憶に格納されます。早い話、あってもなくても一緒な一日だったというふうに記憶されてしまうわけです。

大人になるということは、基本的には子供時代よりも能力が高くなっていることを意味します。すると全力を尽くさずとも、8割程度、場合によっては5割、ともすると2割程度の力しか発揮せずとも、目の前の仕事を片付けるということが出来てしまうようになります。そうすると、当然のことながら本人の成長はありません。100kgのバーベルを持ち上げられる人が、毎日20kgの重さしか持ち上げないでいるようなものだからです。そしてそんな日々は、またまた当然のことながら記憶に残りません。結果、昨日と同じような今日は、今日と同じような明日につながり、それが続くことによって10年単位で『あっという間に』時間が過ぎてしまうのです。チャレンジしない日々は、記録どころか記憶にも残らないのです。

人は、1速から2速、そして3速、4速へとギアを上げていって、それにともないスピードを増すようにできています。多くの人が、ほぼ確実に新卒の頃の収入を今の収入が上回っているでしょうし、当時よりも今の方が仕事が早くなっているに違いありません。が、それと記憶に残るか、幸せを感じるかはまた別だということ。実は人は、1速の時しか記憶出来ません。確かに4速の時の方がスピードは出るのですが、効率が悪く、燃費も悪く、対してスピードも出ず、アクセル全開にしないと進まない1速の時の方が、ぜーんぜん楽しいのです。記憶にがっつり刻まれる、いわゆる青春となります。

確かに、4速でずっと走り続けられることは素晴らしいことです。でも最期にどうせ死ぬことを考えたら、記憶に残る1速の時期がずっと続いたジェットコースターのような人生の方が、きっと楽しかったと断言出来ると僕は思うのです。

人生はいつ終わるかわからないとか、時間は有限だと心の底から言えるほど、僕は歳をとっているわけではありません。でも、今年の1年や去年の1年が記憶に残らないものだとしたら、ちょっとそれは寂しい。ぶっちゃけ、この会社に入ってからの8年間は全て記憶しているので、その意味ではずっと1速でこられているのかなと思いますが、前職のうちの一部は、記憶がすっぽり抜けています。そして最近、それをとても寂しく感じます。

これからどんどん1年の分母対比は小さくなっていきます。しかしその傾斜以上にチャレンジしていけば、これまでと変わらない、いやもっと素晴らしい記憶に残る時間が過ごせるんじゃないかな。そう信じて明日も休暇を全力で楽しみたいと思います。

※ちなみに、小中高の友達と逢うと、彼らに昔の悪業を教えてもらわないと、自分が何をしたかを全く思い出せないのですが、これはチャレンジしていなかったからではなく、単に脳が溶けてしまってその部分の記憶が流出、破棄されてしまったからだと思っています。『お前に携帯折られた』、『お前に靴にアンパン入れられてぐちゃぐちゃにされた』、『お前に胸と腹を間違えられた』など、クレーム多数。。。

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我が生涯に一片の悔いなし!

ドラクエ人生論 羅王編


最近読みまくっている古賀洋吉さんのブログ。

前にも読んだことがあるのですが、最近ブログを自分で書くようになって、また改めて勉強になるなぁと思いながら読んでます。

で、今日は有名な『ドラクエ人生論』(http://yokichi.com/2011/05/post-315.html)を読んで、自分なりに思いついたドラクエ人生論羅王編をば。

ドラクエ分かる人にしか分からないけどごめんなさい。こういう本質を誰にでも分かりやすく伝えられる人って、本当にスゴイと思う。

あと、基本的に僕の人格形成はゲームでされたと思っていますが、これほど学びが多いとは当時は気づきませんでした。朝6時から友達の家に忍び込んでゲームやってたもんなぁ・・・

・弱い時は弱い敵と戦ってればレベルは上がる。でも一旦それなりに強くなってしまったら、それ以上強くなりたければより強い敵と戦わないとレベルなんていつまで経っても上がらないぜ。

・怖がるな。モンスターを恐れる気持ちは分かる。でもよく考えてごらん。モンスター達の方が絶対怖いと思うよ。勇者よりもモンスター達の方が勇気あるかもね。

・ゲームの製作者はそんなにいじわるじゃない。こっちのレベルが1なのに、いきなり魔王の側近が出てくることはまずない。

・まずはカネを払ってゲームを買うこと。そうじゃなきゃ冒険は始まることすらない。

・モンスター達を少しは見習おう。勇者達を倒すまで何度でもチャレンジしてくる。勝てない敵(=勇者)に、それでも『世界の混乱を守るため』に挑んでくるって、実はスゴイことなんじゃないか?

・勇者は何でも出来るけど何にも出来ない。

・セーブは経験値の保存のためにしろ。節約だけの人生で勇者にはなれない。

・スゴイ呪文、華麗な呪文はレベル上がってから唱えよう。レベルが低い時にそんなの唱えたら、魔法力だけじゃなく命が取られる。

・日本がアメリカに負けたのは、日本に回復魔法を使える奴がいなかったからだ。

・とてもとても基本的で大事なこと。歩かなきゃ敵とは戦えない。戦えないと経験値もお金も貯まらない。

・魔王と側近が同時に襲ってきたら、弱い奴から全力で倒せ。戦力分散は最大の愚だ。

・勇者と本当に認められるのは、魔王を倒してから。でも、魔王を倒せるのは、魔王を倒すずっと前から勇者と名乗ってるヤツだけだ。

・洞窟の中では暗くて数歩先までしか見えない。でも、数歩先が見えれば、永久に前に進めるんだ。

・ドラクエが面白いかどうかなんて、ドラクエやったことないやつに分かるわけないだろ。

・基本過ぎる話だけど、『ぼうぎょ』じゃ敵は倒せない。

・メタルスライムもはぐれメタルもメタルキングも現実には存在しないけど、一つだけ参考になることがある。チャンスは逃げ足が早い。

・今レベル99で超強い勇者も、昔はレベル1の村人だったんだ。そして誰よりも多く戦った。ただそれだけだ。

・強いヤツに勝ちたかったら、そいつより強くなるしかないだろ?

・いつも気を抜くと負けそうな敵と戦うからこそ、強くなれるんだ。『楽勝』って、実は成長から一番遠いところにあるんだぜ。

・ゲームの良いところは、負けても負けてもやりなおせることだ。セーフティネットがやたらしっかりしてるな!

ふぅ、また思いついたら書きます。

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我が生涯に一片の悔いなし!

そろそろ試合です


明日はついに10年ぶりの(練習)試合です。極真の。久々にドキドキしています。中学生とか高校生の時、毎年2月14日にしていたドキドキが、また甦ってきたようです。

さて、僕は比較的中距離バッターというか、どちらかというとアウトボクシングチックな空手をするんですが、毎度厄介だなと思う相手のタイプが一つあります。それは、無駄に身体を寄せてくるタイプの人。比較的手足の射程が長い僕としては、密着されると何もできなくなります。手は強いパンチを打つには十分に引けず、足は強い蹴りを放つには相手との距離が足りなさすぎます。

ただ、組手が上手い人をよーく見ていると、そんな身体を寄せられた状態から、色々な技を繰り出します。身体を捻ってパンチのスペースを創りだす。内股への蹴りで相手の体勢を崩す。膝蹴りを入れて圧力をかける、などなど。やろうと思えば実は結構出来ることが沢山あります。ゼロ距離射程でも、相手にダメージを与えることは何ら不可能ではありません。密着した状態を苦手としているとしたら、それは距離の問題ではなく、その距離での戦い方を知らない自分の実力の問題です。

さて、巷では何かっちゃあ海外海外と叫ばれています。日本市場はもうダメだ。少子高齢化でマーケットは縮小するばかりだ。日本の資産運用もダメだ。海外に投資しよう。電機をはじめとした日本の伝説の没落を見よ。これからは低成長の先進国よりも、高成長の非先進国だ。などなど。

確かにその通りな感は否めません。ありとあらゆる指標が、日本はもうダメだ、先行きがないと示しています。そしてそれを知ってか知らずか、世界で一番のほほんと生きているように見える日本人の大半をバカにするような論調というのも確実に存在します。大方は事実を述べているので、僕は別にその意見そのものを否定しようとは思いません。『グローバルエリートを目指せ!』なんて言葉も流行っているみたいです。カッコイイですね。

が、ではこの1億3000万人という世界有数の人口を誇り、大半が善良で支払い能力が高く、モラルと常識に満ちたインフラの完璧な国がそれほど卑下と唾棄をすべき故郷なのかという点については、僕は断固としてそうは思いません。月並みですが素晴らしい国です。そしてその中で稼いでいる人、売上をあげている企業というのは、それはそれで沢山存在します。物事には例外というのがあり、そもそも論として、今の日本で『調子の良い』人や企業が例外に属するほど、数が少ないとも思えません。

国内市場が縮小だなんだと言っても、出来ることは色々あります。成長を求めて海外に打って出る、ということも一つの方法です。しかしその前に中で勝負したら?というふうに思うのは僕だけでしょうか?不十分なサービスを提供したとしてもおおまかなニーズにマッチしてさえすれば楽に売上が上がる海外よりも、ニーズだけではなくウォンツにもマッチしていないと売れない国内市場、過当競争だらけの国内市場、世界一細かくうるさい国内市場において戦った方が、成長につながるのではないでしょうか。あるいはニーズとウォンツにマッチしていて、競争があまり存在せず、顧客が協力者になってくれるようなビジネスをしている方を僕は何人も知っています。

人気なお店は行列が絶えないし、ある高級バッグブランドの世界の売上は数十%が日本が占めています。売れるものは売れるのです。そこを忘れてはいけない。売れないのは、それが必要とされてないからであって、ぶっちゃけ国内市場に対しても、まだまだ出来ることはあるのではないでしょうか。国内市場でも、良いものはいくらでも売れます。

日常生活における問題も、ちょっといじってみて片付かない問題は、すぐに他の誰かか他の何かのせいになります。自分の目の前から、『責任転嫁』という必殺技を使って問題を『飛ばす』のです。そうすると精神的に非常にラクになります。でもちょっとまって。実は解決を目指そうとするならば、下手に『飛ばし』を使って目の前の負債をBSから削除するよりは、しっかりと自分の内面と向き合って根本解決に向かう方がずっと健全だったりします。トイレが詰まったら、いつか流れてくれることを期待して放置するのではなく、イヤイヤながらでも仕方なくポンプを突っ込んでシュポシュポやるべきなのです。

さて明日は極真の試合です。密着されたらどうしよう?そう、色々やるのです。やれることはあるはずなのです。

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我が生涯に一片の悔いなし!

すごい効くパンチ


ついに明後日に空手の試合が近づいてきました。あくまで練習試合ですが、出るのがなんと10年ぶり。超ドキドキしてます。へっちゃらですけどね。

極真空手というのは、基本的にフルコンタクト(顔面パンチ以外は全部当てる)のですが、要は基本稽古以外にも組手の強い弱いが非常に重要になります。KOや悶絶も普段から珍しくないわけですが、そのためにはパンチなり蹴りなりを的確に効かせる必要があります。

本当に効かせるパンチというのは、およそコンビネーションの一部として入るものです。そしてそのためには、意外なようですが全部全力で打つよりも、いくつかの捨てパンチ(といっても力量60~70%ぐらいのちゃんとしたやつ)を絡めた方がパンチが効く可能性が高くなります。初心者は手数も多く全部全力で打つ傾向にあるのですが、実はこれだとほとんどダメージは与えられません。上級者の試合は見ていると、全体の2割ほどが全力パンチ/蹴りで、残り8割はそのための布石であるケースが多いです。

野球も一緒です。ストライクを3つ重ねるか、ゴロやフライを打たせて凡退に追い込むのがピッチャーの目的です。しかしそのためには、外角に逃げたり内角を厳しく攻めるボール球が必須。150kmでも160kmでも、それしかど真ん中に投げられないピッチャーは、2回以降ボコボコに打たれます。

テニスも似ています。ウィンブルドンやUSオープンを見ていると、十中八九、勝負『以外』の球をプロは打ちます。いくら相手にミスさせたり、相手のいないところに打つことでポイントが得られるスポーツだからとはいっても、打つ球が全てそれを狙っているわけでもないのです。ボッコンボッコン全力で打つプレイヤーというのは、まずこのレベルだと勝てません。勝負どころ以外で上手に力を抜ける選手が、勝ち残っていきます。

世の中で最も有名な格言の一つは、『継続は力なり』です。が、よくよく一流の人たちを見てみると、そんな雲上人ですら、ずっと同じペースで走り続けられるわけではないことが分かってきました。先の空手や野球やテニスの例と同様、抜くところは抜くのです。といって下限を30%とかに落とすのではなく、あくまで60%程度までの幅でしか抜かないのですが、それでも抜くところはきっちり抜いています。なので、かの格言も正しくは、『継続は力なり、ただし適度に抜きながら』となります。

そんなわけで、このブログも毎回マジマジではなく、たまに抜こうかと思います。毎回マジだと疲れて停滞するので。僕の師匠も、最近発見したことですが結構な割合で抜いた情報発信をしています。その抜き方が芸術的なので誰も気にしてないかもしれませんが!

※注 『抜く』とは、『手抜き』とは別です。なんというか、力を入れた筋肉ムキムキでバッコーンと打つのではなく、リラックスさせた筋肉をしならせて可動域のスピードを上げて打つ、そんな感じです。

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ノブレス・オブリージュ(再)


前にも書いた気がしますが、僕が好きな言葉、というか大切にしている言葉の一つは、『ノブレス・オブリージュ』です。意味検索はWiki様にお任せ。

世の中は、理想を掲げつつも現実問題として言うとすれば、『持つ者』と『持たざる者』の二極化された世界になってしまっています。当然相対的に見れば日本は『持つ者』の側に立つ国であり、その中で僕の済む東京は『持つ者』の側であろうし、僕は今のところ幸いにも一般的かつ平均的ではありつつも、ちゃんとした家に生まれ、ちゃんとした教育を施してもらい、ちゃんとした会社に勤め、ちゃんとした収入をいただいて、ちゃんとした家庭を営んでいるわけで、『もっと持っている人』を除けば世界の中では『持つ者』の方に分類されると思います。

これは別に経済的なことだけを言っているわけではありません。健康とか安全も、日本は『持つ者』としてトップレベルでしょう。あるいは少しもじって、『モテる者』と『モテざる者』も、その魅力やフェロモンやトーク術において差が確実にあるのだと思います。世の中、あるいは世界を見ると、機会というのも『持つ者』と『持たざる者』を分ける決定要因となります。日本は良い意味で機会の平等がかなりの割合で担保されていますが、途上国や後進国などに行くと、なにかしらの機会すら与えられないまま一生を終えるような人がわんさかいる国もあります。僕が行ったインドで出逢った大多数の人は、恐らくそういう人たちでした。

ノブレス・オブリージュを直訳すれば、『高貴なる者の、そうではない者達に対する義務』となります。これは多少しょっぱいので、僕の解釈では、『持つ者の、そうではない者達に対する義務感あるいは配慮、ちょっとした愛情』としています。たまたま日本に生まれたことは高貴ではありませんが、ラッキーではあります。その反対に、いきなり紛争地域に生まれてしまった人もいるわけです。これは相対的に見て、アンラッキーです。僕は両親が健在で、しかもありがたいことにまともでした。しかしそうではない両親から生まれるという可能性もあったわけですし、児童養護施設などで暮らす子供の何人かは、避けようがない運命を背負ってこの世に生を受けてきています。僕がラッキーである一方で、そうではない人たちが確実にいます。僕はあの日東京に住んでいました。尋常ならざる規模と長さではあるものの、ただの大きな地震でした。しかしある地域では、街が消滅しました。僕は神様を恨まずに済みましたが、あの日以降どれだけの人が神様を恨んだか分かりません。

だから僕は、ノブレス・オブリージュという言葉を、あまり背負い込まないように、しかし絶対に忘れないように日々生きています。所詮自分が立っている場所というのは、金魚すくいやスーパーボールすくいの時に使うあの薄ーい網(紙?)のように繊細で、幾千万もの偶然と好意の産物でしかありません。そしてそれは、僕が生まれる前から保障されていたものではなく、たまたま、本当にたまたまその恩恵を受けているに過ぎません。

具体的なノブレス・オブリージュの具現化方法ですが、あまりレパートリーは多くありません。例えば毎日募金をしています。その日に持っている硬貨の中で、最も高額なものを一枚だけちゃりんします。それが500円玉であろうが、1円玉であろうが構わずです。勿論、募金をする前提はなしでおつりを最小化しにいきます。700円のモノを買う時に、財布に千円札と200円が入っていたら、迷わず1200円を出します。おつりの500円は、翌日の募金の原資とします。ツラいですが、漢気ジャンケンに勝ったときのタレントのように顔を引きつらせながら笑顔で募金します。

他には、仕事に関するノウハウを基本的には公開しています。これは普通の業界だと常識に反することなのかもしれませんが、僕が属する業界ではわりと普通に行われていることで、僕も先輩方にやっていただいたことを、そのまま後輩に受け継いでいます。ブログやメルマガも一種の情報公開ですが、これも一つの与えるという行為です。

誰かが何か僕の知っている範囲に関して困っている場合、僕が直接役に立てる時はそう対処します。そうではないが役に立てる人を知っている場合、迷わず紹介します。対岸の火事や他人事というのはあまり好きではありません。役に立てるものならば自分の力の範囲で最大限努力します。勿論、そうしてあげたいなと思う人に対して限定ですが。

ノブレス・オブリージュという言葉は、基本的には『持つ者』が『持たざる者』に対して、有形無形の何がしかを与える行為です。しかも見返りなく。そして気をつけたいなと思うのは、基本的には水が高い所から低い所に流れるように、変な意図を持たなければ、『持つ者』の『何か』は『持たざる者』に流れていくはずなのですが、実際はそうなっていないことが多いみたいです。でも、敢えて精神的物理的に堤防を設ける必要はないと思っています。じゃんじゃん流したら良い。それを求める者に対してという限定条件付きではありますが。

前職でスマトラ沖地震に対する支援金の募集があったとき、社内には年収数千万を稼ぐ人が沢山いたにも関わらず、全社で集まったお金が僕の出した金額の10倍程度だったときには、本当に驚きました。大多数の人は、募金とは自分が豊かになってからする行為だという認識があるようですが、この事例を以て僕はそれは違うと知りました。要は心がけの問題です。

出入りの激しい業界にいると、本当に苦しんでいる人がどう苦しんでいるかというのが、大体分かります。しかしその営業マンを担当するマネージャーは軽く8桁の収入をもらっており、しかも9時5時で帰っていました。余裕がないとばかりに。世の中ってなんなんだと思いました。

わかりきっていることですが、この国では世代間格差がありすぎます。僕が計算したところでは、両親世代とですら、有形無形に得られる自分の労働以外からの収入が4000万程度違います。その上の世代とは、更に同額程度違います。最低な民主主義が、それ以外のもっと最低な政治システムより優れていることは重々承知していますが、それでも自分のことしか考えない最大多数を応援するシステムに、疑問を抱かざるを得ません。

水は本来、高いところから低いところに流れるものです。しかし現実世界において、それを妨害しているのは大体の場合、人間の有り得ないほどの無知と際限のない欲望です。与えるものは何でも構いません。お金だけでなく機会、知識、人脈、なんでも。それすらないよという人も、時間ならあるはずです。特に新入社員の人は、与えるなんて!と思うかもしれませんが、諸氏らの最大の武器は時間が有り余っていることです。それを垂涎のものとしている人は沢山います。

世の中、本当に『持つ者』の義務感、配慮、ちょっとした愛情で変わります。先進国の世界の人たちが収入の1%を差し出すだけで、世の中の貧困はなくなるというデータもあります。しかし世界はそれをしない。だから自分だけは、そういうことを頭の片隅にでも置いておいて良いのではないだろうか、そんなふうに考えているわけです。

毎度のことで何が言いたいか、ということをまとめますと、つまりは僕はAKBの各グループの中でも、こじはるが所属するノースリーブスが圧倒的に好きだということです。

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我が生涯に一片の悔いなし!

相関関係と因果関係


ビジネスの現場にしろ私生活にしろ、よく勘違い、というか混同されるのは、『相関関係』と『因果関係』です。分かりやすいのは『因果関係』です。例えば、

『糖分を摂りすぎると太る』

というもの。これは科学的にほぼ証明されていることと言って良いと思います。摂取カロリーが消費カロリーを上回る、その原因に糖分が寄与するので、結果的に太るというわけです。明確な因果関係がそこにはあります。

対して、『相関関係』はビミョウです。例えば、

『夏の平均気温が上がると、ビールの売上が増える』

これは、ほぼ確実に相関関係がありますし、恐らく因果関係も関係もあります。

ところが、これも例えばですが

『人口の増加とともに自殺者が増える』

に関してはどうでしょう?明確なデータを取ったわけではありませんが、恐らく一時期の日本に関しては、確かに相関関係があったものと思います。人口の増加に比例して、自殺者が増えてたものと。しかし、どう考えても因果関係はありません。人口が増えていても自殺者が横ばいもしくは減少している国もあるでしょうし、そもそも人口が増えたからといって自殺者が増える理由がありません。それはむしろ、失業率の増加とか経済の停滞とか、そちらを直接の要因として起こる可能性の方が高くなります。

が、識者あるいはそう見える弁舌家の手にかかると、何事も後付けですが『ほらいったでしょ』となります。あの時こういう兆候があったからサブプライムが起きた、あのときこういう兆候があったからバブルがはじけた、などと。それが翻って、○○な兆候がある場合は、風が吹けば桶屋が儲かる式に景気が悪化する、などという公式になったりするわけです。相関と因果を取り違える悪しき事例となります。因果関係のないものまで、相関関係があるという理由だけで様々な理屈付けのもとに、さも因果関係があるがごとく演出されてしまいます。結果、意思決定を間違えます。

ここまでは『相関関係』と『因果関係』を取り違えるな、ということを言っているわけですが、僕が今日言いたいのは、実は全く逆のことです。言いたいのは、

『因果関係が分からなくても相関関係があればそれを信じてみよう』

ということです。朝令暮改ですか?ええ、そうですとも。

コンサルティングなどのロジックに緻密さを求められる世界では、相関関係と因果関係を取り違えるなどもってのほかです。しかしこと個人レベルにおいては、相関関係と因果関係の健全な取り違えは、むしろプラスに働くのではないかと思っています。例えばこういう事例。

『早起きをすると人生が変わる』

『断捨離で収入が上がる』

『目標を紙に書いて毎日見るとそれが達成される』

どれも眉唾で、怪しく、全くもって因果関係の証明出来ない謳い文句です。早起きをしている人皆が人生変わるのだったら、インド人は皆富豪になります。(一般の人が午前3時ぐらいからのそのそ動いてる。)片付けするだけで収入が上がるなら、そもそも片付けるモノのない独身者はみんな金持ちになってます。紙に書くだけで良いのであれば、神様はぶっちゃけ誰の願いを叶えるか、困ることでしょう。

しかし誰もが知っているように、風が吹けば桶屋が儲かる的に、そういうことに真剣に取り組んだ人の人生が変わったり収入が上がったり目標が達成できたりということが実際に起こるということを、経験として知っています。因果関係を証明は出来ないけれど、相関関係を知っているのです。

そもそも、因果関係というものは、その高さに到達して初めて証明に着手出来るものです。山に登る前に、山に登った後の爽快さ、達成感、感動を証明することはできません。山に登った人のみが、それを証明できます。しかしどれだけそれを証明しようとしても、山を登ったこともない人に、それは伝わりません。全ての因果関係は、事が成された後にのみ、証明されるものなのです。しかも経験値としてなので、なかなか明文化されにくいのもポイントです。

が、なんとなく相関関係は期待できそうなのもまた事実です。山に登ることでメンタルが鍛えられそうだ、何かを達成する喜びを得られそうだ、未開の地を見ることで知見が広がりそうだ、など。多くのそういう人を見ていれば、なんとなく想像はつくわけです。

というわけで、何事も初心者の心得というのは大事ですが、とりわけ何かを始めるときに重視すべきと最近考えているのは、

『相関関係が期待できるなら因果関係が分からなくても突っ込んでみる』

ということです。先程述べたように、達成して初めて分かるものを、未達の状態で判断することはできません。絶対に無理です。なので、その他の人の事例、過去の事例から相関関係を見いだせるものがあるとしたら、因果関係を自分で証明できるかできないかは無視して、そして自分を適度に騙して突っ込んでみる、ということをやってみてはいかがでしょうかってことです。難しいことを言っているわけではなく、人が旨いと言っているお店があったら、食べログがどうとかグダグダ言わずにまず食べにいけ、そういうことです。

世の中、過度に因果を気にしすぎるきらいがあるような気がしています。『え?それ意味あんの?効果あんの?』みたいな。個人レベルでおかせるリスクも、そのダメージも大したことはないのだから(というより最低限のリスクで済むのならば)まずやってみればよろし。ピンときたものは、やってみるがよろしなのです。

因果関係は無視して相関関係があるなら突っ込んでみる。是非試してみてください。後付けで全ての因果関係は分かるものです。パパになって、パパになることの素晴らしさを知りました。人生なんてそんなもの。

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我が生涯に一片の悔いなし!

三種類の『失敗しない人』


今年度、僕は自分の人生史上最も失敗を多く経験してるかもしれません。それは今までにないチャレンジをしているからです。おかげさまであまり失敗を怖いと思うことはなくなってきました。戦略的ネガティブが信条なので、意外といままで橋を叩いてもそれが鉄板で出来ていると証明されない限りあまり渡ってこなかったんですね。

さて、失敗を経験してると、失敗をどう避けるかを考えるようになります。成功してる人がどうやってるのかを見極めようとするようになります。そんななかで気づいたことをば。

僕がいつも憧れている『失敗しない人』には、三種類いることが最近分かってきました。

①ほんとに失敗しない人。成功ばっかの人。能力が極めて高い。プライドも高い。が、そもそも優秀なのでそれでよし。
ごくたまーにいますが、これはほんとに選ばれし人です。ま、こんな人のことを論じても何も自分に取り入れるところがないのでやめておきます。羨ましいけど真似できないので、思考の枠からはキックアウト。学生時代から生徒会長で、クラブではキャプテンで、配属でも本社エリートコースで・・・という人。二流のデキる奴はイヤな奴が多いですが、一流のデキる奴というのは、ここに性格の良さすら加わってきます。

②失敗してるけどそれを全て責任転嫁してる人。
なかにはそうとわからぬように人に責任を擦り付けるのが異様に上手い人もいます。特に外資系企業や、名門企業に多い。基本的には能力があまり高くないため失敗するわけですが、それをあの手この手で自分以外の環境や人や組織のせいにするので、一見すると失敗に見えません。が、それが失敗であることは本人が一番よくわかっていて、精神衛生上も決してよくはないため、傍観者や解説者になりたい人以外はあまり目指すのをオススメしません。このスキルばかり突出すると、間違いなく嫌われます。

③失敗してるけどそれが露見する前に失敗したことが分からないぐらいPDCAを高速回転させ、無理やり成功まで持ってく人。
僕が憧れるのは①よりもこちら。我が社にもいますが、驚異的な業績を挙げている方はその裏で膨大な失敗をしています。が、それが表に出てこないほど偉大な業績を残されているので、誰も失敗したとは思ってない。しかも、失敗を膨大に重ねることによりそのうち失敗⇒成功とスライドさせる能力、微調整の力が身につき、成果を出すスピードが格段に上がってくるのです。昨日書いたテニスの史上最高選手、ロジャーフェデラーの話でも触れましたが、こういう人は物事の微調整の質とスピードがハンパではなく高く早い。すぐに目の前の事柄を自分の力を発揮できるベストポジションに移動させます。
①にはなれない、②にはなりたくない、しかし③であれば凡夫である僕でも近づこうと思えばどこまででも近づけます。わずか1度の角度の修正も、数センチ先では大した差になってなくても、数百メートル、数キロメートル先になれば大きな差になるもの。逆に言えばその数キロ先の大きな差を想像、妄想、確信して、今の1度の修正にこだわれるかが勝負です。

理論上はPDCAを的確に回すことが出来れば、どんな場所にすらたどり着くことができます。いつも言ってることですが、暗闇ですらほんの60cm前を照らすことができれば、本州縦断どころかアメリカ横断ですら出来るのです。絶対値ではなく、相対値で進歩/進化し続けること、それが出来るかどうかが、これからの人生の肝になってくると思っています。

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我が生涯に一片の悔いなし!

ロジャー・フェデラーの技術のうち、誰もが欲しがるたった一つの能力とは


僕にとって最高のテニス選手はと言えば、猛烈なギャランドゥとトップ選手にしては貧弱なスタミナと異様な威力のセカンドサーブを誇ったピート・サンプラスです。が、歴代最高の選手はと聞かれれば、それはサンプラスではなく、今のトップを争うナダルやジョコビッチでもなく、ロジャー・フェデラーだと答えるかもしれません。一時期のフェデラーは完成された選手で、本当に穴が一つもありませんでした。

当時圧倒的な強さを誇ったフェデラーを評して、『もしフェデラーの武器を一つだけ手に入れることが出来るとしたら、どの能力が欲しい?』と他のトップ選手にインタビューした記事がありました。素人的には攻撃力抜群のフォアハンド、片手の弱点をものともしないバックハンド、左右やスライス/スピンを自在に打ち分けるサーブなどとトップ選手は答えるものと思っていましたが、選手たちの一番多かった答えが、『フェデラーのフットワーク』だったことには驚きました。え?そこ?といった感じ。

『テニスは足ニス』と格言めいて言われていますが、その実、足のスポーツです。そしてよく見ると、足に関して一番大事なのはそのスピードではなく、『その時そこにいる』ための微調整ステップなのです。適切なボールを適切な打点で適切なタイミングで打てれば、ボールはかなりの確率でオンコートに勢いよく突き刺さっていきます。プロのトップ選手ともなれば、条件さえ整えば延々と打ち続けられるほど。しかしそれが相手のボールの勢いや回転、打たれたスペース如何によって狂わされ、ミスが発生します。四方八方に飛び散るボールに対して、自分の身体を極限のスピードでベストポジションに持っていく技術、これがフットワークであり、そのほとんどの場合は数センチから数ミリの非常に微妙な距離の調整にほかなりません。この技術がフェデラーは圧倒的に優れていたのです。

フェデラーよりも足だけをとってみれば早い選手というのは、恐らく他にも沢山いたことと思います。また、ショットだけを見ればフェデラーよりも威力のある選手も、恐らく沢山いたことと思います。しかしその両方を兼ね備えていて、ベストポジションで自分のベストショットを打つ技術に関して、フェデラーの右に出る者も左に出る者もいなかった、そういうことなのだと思います。

僕たちの日常生活はプロスポーツの世界とは違いますが、類似点も多く見受けられます。例えば営業や経営にしても、結局のところ僕は微調整が優劣を分けると思っています。お客様が何を求めていて、こちらが何を提供できるかの最大公約数を探す過程を巡る微調整。トライアンドエラーの中から自社の戦略戦術に合い、他社に対して差別化出来るポイントを見つけ出すためのPDCAサイクルを回す際の微調整。自分が全力を出せるように自分をその位置まで持っていくことこそが微調整の真髄ですが、それは別にテニスに限った話ではなく、空手に限った話でもなく、日々それが求められるポイントというのは無数にあります。

『そこ』にたどり着くためのスピードやそこに至るまでの推進力となるパワーが大事となる場面も多くあります。しかしほとんどの場合、近似値までは誰でも来られて、しかしジャストな値の場所までたどり着くには時間と手間と労力がかかる、そんなところではないでしょうか。陳建一の麻婆豆腐と市販の麻婆豆腐も、かなり近いですがしかしながら全く違う味を出します。それと一緒。

空手をやっていてもいつも感じる、『なんであの人の蹴りはいつも当たるんだ?』という疑問の答えは、結局のところこの微調整の能力の差の問題で、そしてそれは膨大な練習量とそこに対する意識によって身につくものであると最近ようやく分かってきました。

真実はいつも、自分の周りを一回りしてから脳みそに入ってくるようです。

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我が生涯に一片の悔いなし!

お前の母ちゃんでべそ


『お前のかあちゃんでべそ、お前はタコちゅーの半魚人野郎』などと悪口を言われてちゃんと怒れる人はあまりいないと思います。

が、『お前自分勝手だよね』と言われたとしたら、少なからずムカつく人というのは多いのではないでしょうか。

その原因ははっきりしています。前者は自分と(ほぼ100%)関係ない遠い話であり、後者はもしかしたら自分から至近距離にある問題で、それに自分が当てはまっている可能性が多いにあると自覚しているからです。早い話、自分と関係ない話で悪口を言われてもムカつきませんが、自分がそうであるかもしれないと薄々自分でも分かっている性質に関して言われると、人はムカつくのです。自分のことを全くもって公明正大で誠実な人間だと100%信じ込んでいたら、『自分勝手だよね』と言われても特にムカつくことはありません。

今僕はあるボランティア関連の委員会で役員を努めています。その中に、ものすごい精度で重箱の隅をつついてくるベテランの方がいらっしゃいます。本当に本当に細かい。そんなのえーやん、と思うぐらい。そのせいでだいぶ時間も食われてしまいます。

しかし後々考えると、その指摘された点に関しての思考が抜けたとすると結構致命的な遅延や失態を伴うことになる、そんな部分を指摘してくださってることに気づきます。結局のところ、耳が痛いしうるさいと思っていた部分は、とてもとても大切な部分だったりするのです。その重箱の隅を直していくことにより、事後の手間が大幅に削減されることとなりました。

卑近な例で言えば、最初に挙げた悪口は全く同じ構造をしています。言われるとムカつくこと、実はこれは、自分が更なる成長を遂げるためにボトルネックとなっている部分なのかもしれません。逆に言えばそこを解決しさえすれば、大きく飛躍出来ることになります。ということはですよ、ムカつくことを言われたら、その人自身にはややムカつきつつも、自分の弱点を発見できたと喜ぶべきではないでしょうか。鎖の強度は、一番弱い接合部分の強度が全体の強度を決めます。言われてムカつくことは、大体において自分の中で一番か二番目ぐらいに弱いところだったりします。

そんなわけで何かにムカついた時は、それは相手に明らかな非がある場合と、そこに自分の成長の可能性が隠されている場合がありますので、よくよく考えてムカついてみる必要がありそうです。ま、そんだけ考えたらムカつくのではなく落ち着いてしまいそうですが笑

今日は短めに。

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我が生涯に一片の悔いなし!

脳内天秤


今日も極真の稽古でした。この10年で一番運動してますね。ある事情で本当に10年間に渡りまともに運動出来ていなかったので、今楽しくて楽しくて仕方ないです。90kg10%なラオウへの道のりはまだ遠そうですが、最終的には肉弾戦で米海兵特殊部隊NavySealsに勝つのが目標です。

さて、とはいっても稽古は楽しいことばかりではありません。どちらかと体力的にはツラい。そして今日は具合がそこそこ悪い。ボランティアでやっている役員業務があるので、時間もない。家に帰る手前まで行ってしまいました。

こういうとき、心の天秤を上手に操作してあげる必要があります。

よくやってしまうのは、『マイナスイメージを消そうとする』こと。ハードなトレーニングをハードじゃない!と思い込もうとしたり、痛い先輩方の蹴りを痛くない!と思い込もうとしたり、疲れてるし時間ないし・・というのを打ち消そうとしても、人間の脳の構造的にあまりうまくいきません。

『ピンクの象を想像しないでください』と言われたら、頭にピンクの象が浮かびます。人間の脳ってそんなもの。命令を命令通りに遂行出来るかと言えば、軍人さんと違って忠実ではなく、ときにその反対の行動に出るのです。

しつこいようですが、心の天秤をうまく動かします。マイナスなイメージがある時、それを打ち消そうとするのは無益とは言わないまでも相当困難です。しかしマイナスの皿の反対には、プラスの皿があります。このプラスの皿の比重を高めてやれば、そのうち均衡し、やがてプラスの皿がどしーんと地面に付きます。

僕の事例で言えば、稽古の結果ヒーヒー言いながらもそれを乗り越えた自分に高い満足を得ている状態をイメージしたり、バンバン強くなって黒王号にふさわしい漢になっている姿を想像したり、将来の授業参観で娘が僕を友達に自慢しているであろう情景を妄想したり、そういうことをすることで、頭の中の天秤の傾きがあっという間に変わります。

人は大体悩むもの。悩むということは、やろうかやるまいか、行こうか行くまいか、YesとNoが100対0か0対100ということはまずないわけです。いつも大体60対40とか、下手すると51対49とかです。どれだけ差が少なくても、天秤同様脳の天秤も重さがある方に傾き、結果『やらない』、『行動しない』などの決断となって表層にあらわれます。だから逆に、ほんのちょっと天秤の重さの配分を変えてあげれば良いのです。それには上記のとおり、マイナスを軽くするのもまぁよしですが、プラスを重くする方がもっと楽です。楽しいことを想像するわけですから。

人生は本当に日常の微差によって、累計すると圧倒的な差が生まれるものなんだということを、最近ひしひしと感じます。そしてその微差を生み出すのは、ちょっとしたタイミングでのちょっとした自分に対するコントロール権を、うまく発動できるかどうかにかかっているのではないか、そんなふうに考えています。

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我が生涯に一片の悔いなし!