ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

ノブレス・オブリージュ(再)

time 2013/09/21


前にも書いた気がしますが、僕が好きな言葉、というか大切にしている言葉の一つは、『ノブレス・オブリージュ』です。意味検索はWiki様にお任せ。

世の中は、理想を掲げつつも現実問題として言うとすれば、『持つ者』と『持たざる者』の二極化された世界になってしまっています。当然相対的に見れば日本は『持つ者』の側に立つ国であり、その中で僕の済む東京は『持つ者』の側であろうし、僕は今のところ幸いにも一般的かつ平均的ではありつつも、ちゃんとした家に生まれ、ちゃんとした教育を施してもらい、ちゃんとした会社に勤め、ちゃんとした収入をいただいて、ちゃんとした家庭を営んでいるわけで、『もっと持っている人』を除けば世界の中では『持つ者』の方に分類されると思います。

これは別に経済的なことだけを言っているわけではありません。健康とか安全も、日本は『持つ者』としてトップレベルでしょう。あるいは少しもじって、『モテる者』と『モテざる者』も、その魅力やフェロモンやトーク術において差が確実にあるのだと思います。世の中、あるいは世界を見ると、機会というのも『持つ者』と『持たざる者』を分ける決定要因となります。日本は良い意味で機会の平等がかなりの割合で担保されていますが、途上国や後進国などに行くと、なにかしらの機会すら与えられないまま一生を終えるような人がわんさかいる国もあります。僕が行ったインドで出逢った大多数の人は、恐らくそういう人たちでした。

ノブレス・オブリージュを直訳すれば、『高貴なる者の、そうではない者達に対する義務』となります。これは多少しょっぱいので、僕の解釈では、『持つ者の、そうではない者達に対する義務感あるいは配慮、ちょっとした愛情』としています。たまたま日本に生まれたことは高貴ではありませんが、ラッキーではあります。その反対に、いきなり紛争地域に生まれてしまった人もいるわけです。これは相対的に見て、アンラッキーです。僕は両親が健在で、しかもありがたいことにまともでした。しかしそうではない両親から生まれるという可能性もあったわけですし、児童養護施設などで暮らす子供の何人かは、避けようがない運命を背負ってこの世に生を受けてきています。僕がラッキーである一方で、そうではない人たちが確実にいます。僕はあの日東京に住んでいました。尋常ならざる規模と長さではあるものの、ただの大きな地震でした。しかしある地域では、街が消滅しました。僕は神様を恨まずに済みましたが、あの日以降どれだけの人が神様を恨んだか分かりません。

だから僕は、ノブレス・オブリージュという言葉を、あまり背負い込まないように、しかし絶対に忘れないように日々生きています。所詮自分が立っている場所というのは、金魚すくいやスーパーボールすくいの時に使うあの薄ーい網(紙?)のように繊細で、幾千万もの偶然と好意の産物でしかありません。そしてそれは、僕が生まれる前から保障されていたものではなく、たまたま、本当にたまたまその恩恵を受けているに過ぎません。

具体的なノブレス・オブリージュの具現化方法ですが、あまりレパートリーは多くありません。例えば毎日募金をしています。その日に持っている硬貨の中で、最も高額なものを一枚だけちゃりんします。それが500円玉であろうが、1円玉であろうが構わずです。勿論、募金をする前提はなしでおつりを最小化しにいきます。700円のモノを買う時に、財布に千円札と200円が入っていたら、迷わず1200円を出します。おつりの500円は、翌日の募金の原資とします。ツラいですが、漢気ジャンケンに勝ったときのタレントのように顔を引きつらせながら笑顔で募金します。

他には、仕事に関するノウハウを基本的には公開しています。これは普通の業界だと常識に反することなのかもしれませんが、僕が属する業界ではわりと普通に行われていることで、僕も先輩方にやっていただいたことを、そのまま後輩に受け継いでいます。ブログやメルマガも一種の情報公開ですが、これも一つの与えるという行為です。

誰かが何か僕の知っている範囲に関して困っている場合、僕が直接役に立てる時はそう対処します。そうではないが役に立てる人を知っている場合、迷わず紹介します。対岸の火事や他人事というのはあまり好きではありません。役に立てるものならば自分の力の範囲で最大限努力します。勿論、そうしてあげたいなと思う人に対して限定ですが。

ノブレス・オブリージュという言葉は、基本的には『持つ者』が『持たざる者』に対して、有形無形の何がしかを与える行為です。しかも見返りなく。そして気をつけたいなと思うのは、基本的には水が高い所から低い所に流れるように、変な意図を持たなければ、『持つ者』の『何か』は『持たざる者』に流れていくはずなのですが、実際はそうなっていないことが多いみたいです。でも、敢えて精神的物理的に堤防を設ける必要はないと思っています。じゃんじゃん流したら良い。それを求める者に対してという限定条件付きではありますが。

前職でスマトラ沖地震に対する支援金の募集があったとき、社内には年収数千万を稼ぐ人が沢山いたにも関わらず、全社で集まったお金が僕の出した金額の10倍程度だったときには、本当に驚きました。大多数の人は、募金とは自分が豊かになってからする行為だという認識があるようですが、この事例を以て僕はそれは違うと知りました。要は心がけの問題です。

出入りの激しい業界にいると、本当に苦しんでいる人がどう苦しんでいるかというのが、大体分かります。しかしその営業マンを担当するマネージャーは軽く8桁の収入をもらっており、しかも9時5時で帰っていました。余裕がないとばかりに。世の中ってなんなんだと思いました。

わかりきっていることですが、この国では世代間格差がありすぎます。僕が計算したところでは、両親世代とですら、有形無形に得られる自分の労働以外からの収入が4000万程度違います。その上の世代とは、更に同額程度違います。最低な民主主義が、それ以外のもっと最低な政治システムより優れていることは重々承知していますが、それでも自分のことしか考えない最大多数を応援するシステムに、疑問を抱かざるを得ません。

水は本来、高いところから低いところに流れるものです。しかし現実世界において、それを妨害しているのは大体の場合、人間の有り得ないほどの無知と際限のない欲望です。与えるものは何でも構いません。お金だけでなく機会、知識、人脈、なんでも。それすらないよという人も、時間ならあるはずです。特に新入社員の人は、与えるなんて!と思うかもしれませんが、諸氏らの最大の武器は時間が有り余っていることです。それを垂涎のものとしている人は沢山います。

世の中、本当に『持つ者』の義務感、配慮、ちょっとした愛情で変わります。先進国の世界の人たちが収入の1%を差し出すだけで、世の中の貧困はなくなるというデータもあります。しかし世界はそれをしない。だから自分だけは、そういうことを頭の片隅にでも置いておいて良いのではないだろうか、そんなふうに考えているわけです。

毎度のことで何が言いたいか、ということをまとめますと、つまりは僕はAKBの各グループの中でも、こじはるが所属するノースリーブスが圧倒的に好きだということです。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!
読んでいただいてる方のシゲキとゲンキとキヅキになれば嬉しいです。

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羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

「ラオウを目指す羅王のブログ」にようこそ。修羅が蔓延る世紀末の日本を、「北斗剛掌派」という思想体系を以て変える活動をしています。我が生涯に一片の悔いなし!と言える人生を送るため、101回目のダイエットに励んでいます。