2019/01/13
なんであれ、目標というものは設定するのは結構なのですが、やはり達成してこそ価値があります。絶対に届かない目標はもはや『夢想、妄想』であり、手を伸ばさずとも届く目標というのはただの『予定』です。105%の力を発揮すればギリギリ届くもので、95%と手を抜くとギリギリ届かないもの、それが目標です。そこにたどり着くのが目標達成。
僕の人生の鑑ともなっている5歳児なカノジョが、目標達成とはいかなるものなのかについて、非常に深い示唆を与えてくれました。
お水が飲みたいの!!!
先日あるデパートにいったときのこと。親切なことに水飲み場があったので、カノジョは一目散に駆け寄りました。なぜか水飲み場には目がなく、毎度必ず何らかのアクションをします。数年前にUSJで水飲み場から何らかの菌が見つかりましたが、そういうのが結構心配になります。
今回も見つけたと同時にダッシュしてました。
『お水ー!お水ー!お水が飲みたいの!!!』
ペットボトルを僕が持っていましたが、こういうときにそういう代替案は全く役に立ちません。日本昔話の大きいつづらと小さいつづらのように、大きい水飲み場と小さい水飲み場があったので、分をわきまえて小さい水飲み場の方へ。
まだ100cmをちょっと越えたばかりなので、背伸びをしてようやく顔が前に出るぐらい。微妙に水飲み場の構造が胸につっかえるらしく、惜しくも届きません。
口全体を水の発射口の延長線上にもっていくことを諦めたカノジョは、舌を出しました。しかしそれでも届かない!あと1cm。1cmがどうしても届きません。背伸びをしてもジャンプしても、あと1cm届かず、水を飲むことが出来ませんでした。
最終手段に出たカノジョ
これでは現状突破がいかんともし難いと察したカノジョは、最終手段に出ました。羞恥心の放棄です。
微妙な、しかし確実な変化が読み取れますでしょうか?
口は大きく開かれて舌が最大の長さを維持できるように変形しました。それに伴い体重移動がより前になされ、持久戦よりもこの場で勝負を決めるがごとく前傾しています。目線はターゲットに注がれるのではなく、水に舌が近づくことを最優先に全身をコントロールしたため、必然上向きに。全体として、幼児が大人向けにウケを狙っているときのような顔になっていますが、このときカノジョは、僕のウケを取ろうとは一切していません。
ただただ、お水が飲みたかったのです。
エヴァンゲリオンのような変身を遂げたことにより、あと1cmの差が埋まりました。カノジョは無事、舌先でお水を味わうことができました。目標達成への意欲が、羞恥心に勝った瞬間でした。
バランスは崩れるものではなく、崩すもの
毎度のことながら、僕は感嘆の想いを禁じ得ませんでした。どうしてこうも毎回、人生においてもっとも大切と思われることのいくつかを、こうしてカラダを使って教えてくれるのか。
冒頭に、ギリギリ到達可能なものが目標であり、それにたどり着くのが目標達成であると書きました。このためのエッセンスがまさに、上記2枚の写真に込められていると思います。
競馬で最後の直線の最後の最後に馬が全頭前傾するように、100m走の選手が最後の最後に胸をめいっぱい張るように、あるいは僕の同僚がいつも最終月だけお願い営業で売りまくるように、大から小まで、いつも目標達成というのはギリギリの勝負です。
で、このギリギリの勝負に勝つときには、それまで保ってきたバランスを意図的に崩す必要が生じることもあります。次の一歩を出すことよりも頭や胸を出すことを優先したり、1ヶ月だけまともに休みもとらずに働くということがそれにあたります。バランスは、崩れるものではなく、ある局面においては意図的に崩すものなのです。
カノジョの写真で言えば、1枚目にあるようないつも通りの可愛らしい顔、無理のない動きでは、ギリギリお水に届きませんでした。もっている100%の力を105%にするために、その5%をひねり出すために、カノジョは羞恥心を捨て、目標達成のために全てを懸けたのだと思います。その結果があの顔です。
目標達成の対価とは、よっぽどの大勝負でなければ、別に命そのものとか、人生全部とか、そこまでの規模にはなりません。多くの場合はたった5%程度の対価を払えるかどうか。それが羞恥心なのか、お金なのか、休暇なのか。
人によってその尺度は違います。でも、そのたった5%によってNoがYesに、未達が達成に、リタイヤがゴールに、それぞれ変わるのであれば、もうちょっとだけ何かを差し出して頑張ってみるのもありなのかな。
なんてことを思った水飲み場事件でした。
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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。
退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!
我が人生に一片の悔いなし!!!