ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

子どもをもつことはコウリツ的かつ非効率 #638

time 2015/06/09


 

ちょっと前にウェブで読んだところによると、『子どもを持つことによる経済的な負担』は1億を越えるらしい。

『子ども1人あたり3000万』というのは僕たちの世界でよく言われていることで、生活費+教育費で大学まで普通に暮らせば大体それぐらいかかり、私立だの習い事だの下宿だのが加わればその1.5倍〜2倍ぐらいかかるというのは肌感覚では知っていたけれど、しかし1億とは思ってなかったのでくりびつした。

確かに、かかる実際の額だけではなく、機会損失も入れたらそれぐらいになるかもしれない。

そのエントリの主張としては、『だから子どもを持つことはよく考えた方がよい』というもの。確かに夫婦共働きで稼ぎ続けていれば、奥さんが子どもを産んで仕事を辞めるか派遣に変わって&子どもにお金がかかるのと比較して、1億は違う。生活水準から趣味嗜好から服装から年金額から、何から何まで変わってくる。よーく考えよー、お金は大事だよー、とのこと。

子どもにどれだけお金がかかるか身を以て感じている僕としては、この記事を、『バッカじゃねーの?子どもいたほうがいいに決まってんじゃん!』と断罪することもできないし、かといって『お金がかからないほうがいいよね!夫婦2人で思い通りの人生を生きよう!』という意見に同意することもできない。

個人的なことを言えば、少なくとも娘がいた5年間は、僕はこの上なく幸せだった。娘に話しかけてくる年上の男(娘が年少さんのときの年長さんとか)に、殺意を覚えるようになるとは、昔は想像すら出来なかった。

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子どもをもつことは『効率的』か?

一律には断定することの出来ないこの問題、ちょっと考えてみた。まず『効率』という面で考えてみると、子どもをもつことは間違いなく『非効率』だと言える。

生まれた瞬間から泣き声に悩まされる日々が始まるし、生まれて数年間は一人じゃなにも出来ない。当然大人(通常はお母さん)のリソースが24時間態勢で奪われ、家庭の労働力は著しく減少する。いなくなったり怪我をするリスクを抱えたり、最悪病気したり死亡したりのリスクを抱えながら、進学させたり成人させたりするのは並ではない。

カンガルーのように親の袋でのほほんとしてるのは、せいぜい数ヶ月にしてくれたらどんなにラクかと思う。人間というのは、特に幼少期において最も弱い生き物だというが、本当にそうだ。子どもは消費することはあれど、生産することはまずない。

『命とは、すなわち時間のことである』という格言に沿って言うのであれば、間違いなく子育ては時間を消費させられる。いつも大変申し訳ないなと思いながら、奥さんの時間はほとんど子どもに使われている。時間もお金も自由になるはずの大人が、そうではない子どもに束縛され、取り返しのつかない時間という資産をとめどなく注ぐことになる。

ある種類の人間にとっては、人生の全盛期を子どもに奪われた感覚が芽生えるというのは、ある意味自然なことなのではないかと思う。

子どもというのは、そういう存在だ。

では、子どもを持つことが効率的ではないならば、なぜみんな子どもを持つのだろうか?

それは誰もが知っている通り、幸せだからだ。

 

 

『効率』で考えるVS『コウリツ』で考える

こういう問題を考えるとき、上記のように『効率』で考えると、本質を見失う。途方も無い矛盾が発生し、それを説明することなど出来ない。

徒歩で1時間かかる道をみんなは電車で10分で移動しようと『効率』を求めるのに、持つと持たないとで1億違う子どもに関しては、価値観の例外(カラダは健全だけど子どもが欲しくない人たち。全体からすれば、生物の本能にも反するし、やはり少数だと思う。勿論、欲しいのに出来ないという人たちの話ではない。)を別とすれば、みんな子どもを持とうとするのは『効率的』ではないけれど、『幸率的』だからではないだろうか?

その選択によって、『幸せになる率が高まるか否か』を基準に考えたから、みんな子どもを持とうとするのではないか?結果、幸せを感じているのではないだろうか?

こう考えると、納得のいくことが沢山あるような気がする。最近ハマっているトライアスロンは、『効率的』かと言えば、間違いなく否である。バイクの解体や組み立てはめんどくさい。マラソン大会に比べて荷物が5倍ぐらいある。わざわざ遠方までツラい思いをしにいかねばならない。参加者はみんな豪放磊落で、自分の小ささを毎度思い知らされる。

こんな『非効率』なスポーツであるにも関わらず、しかしゴールしたときの達成感、生きてるという実感、自分の限界に挑戦してやったぜ感というのは、たまらなく『幸率的』である。ウルトラマラソンなども、車で移動すればいいだけの距離をわざわざ走るキチガイのスポーツだが、同じような感覚がある。

家でごはんを食べるというのもそうだ。ぶっちゃけ、外の方が旨いかもしれない。でも、毎度思うが外で食べるどのレストランにも勝る旨さを、家で食べるときに感じている。それはきっと『効率的』ではないけれど、手間ひまかかっていて『幸率的』だからだろうと思う。

 

 

『効率的』と『幸率的』を間違えない

かといって、『効率的』なのが悪いわけではない。1時間かかる作業なら10分に出来た方がいいし、10人かかる仕事が5人で片付けられたら言うことはない。だから『効率的』に出来るかどうかは、とても大事だ。

が、感覚的な話をすると、自分の価値観のなかで極めて大事なものに、この『効率』を当てはめようとすると、イタい目を見ることになる。『効率』を求めるのは、それ以外にすべきだ。

子どもに怒鳴り散らしているお母さんがいる。よく見る光景だ。子どもがぐずぐずしているのかもしれない。自分の思う通りのスピードの数分の一でしか動かないのかもしれない。時間に遅れそうなのかもしれない。

それは大人からしたらとても『非効率』に見えるかもしれないけれど、子どもからしたら一生懸命に考えた結果、そのような行動をとっているのだろう。うちの子も、僕に見せようとして無駄にアスレチックな感じで道の手すりによじ上ろうとする。

ぐずぐずしている子どもというのは、『効率』で考えたら叱るべきなのかもしれない。でも、『幸率』で考えたら、別にほっといてもいいんじゃないか?と思う。子どもが歩きたくなるまで待っててもいいなじゃないか?と思う。時間に遅れたら、先生に『すみません』と謝れば済む話で、そこまでして怒るのは、『効率』にしか目が向いてないからじゃないかと思う。

もちろん、子どもの将来が歪まないように、躾は徹底的にするべきだ。僕も間違ってることは泣いても許さない。が、そのときもなるべく『効率』ではなく、『幸率』で考えるようにしている。

そういえば旅もそうで、一人で四苦八苦したバックパッカーとしての旅はとても『非効率』だったが、とても『幸率的』だった。大人になって時間がなくパックでしか行けなかった旅行は、とても『効率的』だったが、何も残らなかった。

僕の保険の提案は自分や家族を守るために『幸率的』であることをモットーとしているため、『効率的』に生きようとしている人には合わないような気がする。死なない、病気しないことを前提に保険を組んだ方が、ずっと『効率的』だからだ。

自己投資というのは、しなくて済むならばしない方がはるかに『効率的』だ。けれど、人は本来自分が成長するということ、より多くのことが出来るようになることに対して、喜びを感じる生き物である。ゆえに、そういうものにお金や時間を使うことは、『幸率的』であるとは思う。

 

そんなわけで、自分の価値観との対話が必要な話ではあるのだけれど、『ここは効率的にいくべきか、幸率的にいくべきか』という判断を、なるべく間違えないように生きていたいと思う今日このごろ。池に浮かぶ大玉の中でひっくり返ってゲラゲラ笑っている娘を見たときに、そんなことを感じた。とても『非効率』で、とても『幸率的』な時間だった。

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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

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家族とか教育とかの話

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羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

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「ラオウを目指す羅王のブログ」にようこそ。修羅が蔓延る世紀末の日本を、「北斗剛掌派」という思想体系を以て変える活動をしています。我が生涯に一片の悔いなし!と言える人生を送るため、101回目のダイエットに励んでいます。