いつも読ませていただいているかさこさんの原爆ドームに関するエントリを読んで、そういえばと思った話。
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1945年、8月6日午前8時15分に広島に原爆が投下された。70年前の出来事だ。たった70年前の。
大昔かと思ったら、意外とそうでもない。僕が今年35歳になる。そのたった倍だ。僕が生まれる僕の人生1回分前の時代に、原爆は落とされた。
うちのばあちゃんは、広島にいたので被爆した。奇跡的に直撃を免れ、がれきとなった街の放射能をたっぷり浴びるに留まった。
ばあちゃんは晩年、身内(僕とか弟とかいとこの間で)で『ジーコ』と呼ばれていた。本当によく似ていた。僕が大学入学のときにばあちゃんと撮った写真は、まるで僕とジーコがW杯で撮った写真のようだった。
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ばあちゃんはその後じいちゃんと出逢い、おかんが生まれ、時を経て僕や弟が生まれ、そして娘たちが生まれた。後遺症はなかったように思えるが、原爆手帳は持っていた。僕はその意味を詳しく聞いてことはなかった。
放射能の影響が、晩年になって突然牙を剥いたのかは知らない。ばあちゃんは僕が大学生の頃に、パリ旅行に行った直後に、思い出を残して安心したように、突然逝ってしまった。じいちゃんは僕が生まれるずっと前に逝ってしまっていた。
僕は命日ではなくいつもこの8月6日に、ばあちゃんを思い出す。ばあちゃんは、自分の経験について語ってくれることはほとんどなかった。正直、それを聞く態勢が僕に全く整っておらず、話してくれていたとしても、聞いていなかったんだと思う。
 
僕の父方のじいちゃんは、戦争に行った人だった。幼い頃は倉敷のじいちゃん家によく帰省していた。じいちゃんは見た目からしてどこから見てもじいちゃんで、絵に書いたような頑固なじいちゃんだった。
みんなでご飯を食べに行ったときに、店員さんにクレームをつけるときの覇気は、ハンパなかった。今で言うところの、『覇王色の気』をまとっていたと思う。別名、ただの『モンスタークレーマー』だったと記憶している。
僕は、小学校で習った戦争の話をちょろっとじいちゃんに聞いたことがある。大した返事は来なかった。僕は大した知識を持ってなかったので、その後深堀りすることもできずに、返ってきた答えに対して、『あーそう』ぐらいにしか返すことができなかった。
今だったら出来た100の質問は、そのとき出来た唯一の『戦争って大変なの?』という質問で代替されていた。
じいちゃんはもうこっちの世界にはいないので、知識も経験も積んだ僕が話を聞くことは、もう二度と出来ない。
 
仙台に出張に行ったときのこと。僕はアポを終えると、『閖上(ゆりあげ)』という地域に向かった。仙台からほど近く、しかし壊滅的な被害を津波によって受けた地域だ。僕はどうしてもその姿を目にやきつけておきたかった。
道中、タクシーの運転手さんにあれこれと聞いた。仙台の中心地の話関しては、思いのほか人々は元気だと教えてくれた。というか、ぶっちゃけほとんど影響がなかったらしく、震災特需でむしろ潤っているとのことだった。
一方、これから向かう閖上という地点に関しては、ぼそりと一言、こう言った。
『あまり、行きたくないんですよね。』
僕の理解力が欠けていた点を差し引いても、ばあちゃんが原爆の話をあまりせず、じいちゃんが戦争の話をあまりしなかった理由が、少しつながった気がした。
じいちゃんもばあちゃんもタクシーの運転手さんも、触れたくなかったのだと分かった。
 
僕には、人生最大の暗黒時代と呼べる2年間がある。大体2009年から2011年ぐらい。ちょっとしたことからフィジカルが壊滅的な打撃を受け、もう死ぬかもと思っていた。『体調を崩した』と書けばあっさり聞こえるかもしれないが、その程度がハンパではなく、気が狂うかと思うほどの苦しみであった。
そんな経験に触れると、決まって『病気ですか?』、『ストレスで鬱ですか?』などと聞かれる。どちらでもない。しかし言いたくないので、『いや違うんですけど』とごまかすしかない。
まぁ、さわりだけ話した自分が悪いのだけれど、『そういうことがあった』という事実は成り行き上知っていてほしくても、その具体的な内容になると、今度は『ほっといてくれ!』という気分になってきて、口が重くなるのだ。話したくない、触れられたくない、そんな事実があったことすら知られたくない。
『あの話知ってる?あ、でも言えないや』みたいな話で恐縮なのだけれど、必要があったので入り口までは案内するが、ドアは締めるみたいなことをよくやっている。
たぶん、上記3人は、受けた被害のレベルは違えど、こういう気分だったんじゃないかと思う。
 
原爆にしろ戦争にしろ震災にしろ、後世に伝えていかなければならない事柄だ。人類の歴史は、それを振り返ることでいくつもの悲劇を抑止出来てきた実績を持っている。『歴史は繰り返す』の通り、愚かに見える人類も、しかし、あれ以降核のボタンを別の国家向けに押すということはしていない。
が、絶対に伝えなければいけない大事なことだと分かっていても、カラダがそれを拒否してしまうということはよくある。僕自身の拙い経験でもそれは起きたし、壮絶な経験をしたばあちゃんやじいちゃんや運転手さんならなおさらだろう。
僕の周りだけじゃなく、今既にこの世からいなくなろうとしている生き証人たちのほとんどは、こういう気持ちなんじゃないだろうか。あの出来事があったから今がある。そんなことは分かっている。分かっているけど話せない。話したいけど話せない。
冒頭のかさこさんのエントリでは、原爆ドームが一時期、取り壊しの危機にあったことが伝えられている。幸い、取り壊しは免れたようだけれど、僕はそれで良かったと思っている。原爆ドームは、別に後世の人間に説教をしているわけではないと思う。どちらかというと、先人達が話したくても話せなかった事実、現実、経験を、それに興味を持った人間たちに代弁してくれている。
閖上も、人の口からはいずれ語られなくなるだろう時期が来るかもしれない。いや、すでにそうなりつつある気がする。そのときのために、敢えてそのままにする、という選択肢が取られる可能性もあるかなと思っている。
話したくても話せなかったことを、それでもほんのちょっと教えてくれたばあちゃんやじいちゃんやタクシーの運転手さんには、心の底から感謝している。
現代では、会いたくて会えなくて震えるらしいが、そんなので震えてないで会いにいけばいいと思った。もう会えない人たちとは本当に会えないのだから、別にいつでも会える人には震えてないでさっさとアポを取れば良い。
僕はおかしいのカナ。
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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!

我が人生に一片の悔いなし!!!

 
 

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