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僕は管理職でもなんでもないのだけれど、相互研鑽のためにある勉強会を社内で主催していている。もうすぐ3年になる。
別に僕が何をしたわけでもないが、元々優秀なヤツらだったからか、卒業生は同じMDRTになったり社長杯に入ったりしてくれたのでとても嬉しい。僕も毎回付加価値を少しでも提供できるようにと、結構必死だ。
今はまた新たに新人から中堅を中心にメンバーを少数集め、毎週開催している。
この勉強会、いわば羅王塾のなかで、メンバーの募集要項としているものが非公式にある。
1、自身の成長を強く願い、以て顧客への提供価値を高めること
2、社長杯、MDRTなどの目標は当然のごとく視野に入れていること
3、自己流と原理原則がバッティングしたときは、原理原則を優先できること
このなかで、1と2に関しては、まぁ業界人なら当たり前とも言える基準なので、クリアするのは難しくはないし、目利きもそんなに間違えない。
注意すべきは3だ。難しく書いてあるけれど、要するに『自分のやり方でうまくいかないときに先輩からうまくいってるやり方を教えてもらったら、自分のやり方に固執せずまずはそっちをやってみろ』ということ。
これが意外や意外、出来ない人がとても多い。僕としては属人性を排して誰にでも出来る方法を伝えていたつもりだけれど、そういう因数分解されたちょっとした動きでさえ、『自分の流儀に合わない。』という理由で却下しているメンバーがいた。
僕は数度の交渉の挙げ句、そのメンバーには羅王塾を辞めていただいた。『自分の流儀』で結果が出ていないのだからそれを捨てろと言っても、その流儀こそが生命線とばかりに固執されては、こちらとしてはもう打つ手がなかった。
僕は当初、1や2の思いの強さが不足しているのかと思ったが、そうではなくて3が全く出来ていない、つまり『いかなる時も自分の流儀を最優先』というそのメンバーの信念を見抜くことが出来ていなかった。
普段は甘さが先行してそういうことは滅多に出来ないのだけれど、このときは他のメンバーへの悪影響を考えて仕方なく決断した。僕のなかでの苦い失敗だ。表面上でも、いくらかコミュニケーションを取っていても分からなかったのは、僕の実力不足か、あるいはそもそもそういう問題だったのか、まだ答えは出ていない。
 
大小問わず組織を運営する上で、『同一性』と『多様性』というのは、常にぶつかる問題だ。
日本は単一民族という同一性ゆえにコミュニケーションロスがほとんど生まれず、『暗黙知』なる多民族国家には到底真似出来ない必殺技を駆使して、世界トップクラスの経済力を得るに至った。
一方のアメリカは『人種のるつぼ』と言われ、その出自の多様な民族構成により、様々なイノベーションやコラボレーションが生まれて世界一の国となった。
日本の企業で今『Diversity』が叫ばれているのは、その強力すぎた同一性があった一方で、単一民族かつ男性優位かつ終身雇用や年功序列などのかなり固定された労働システムのなかで、成長の限界値がなんとなく見えてきたからだろうと思う。
たぶん、一定期間はこの同一性と多様性という、文字からして明らかな矛盾を秘めたこの両者のミックスに、時間がかかるのだろうと予想される。
 
小さい組織に目を向けても、同じように同一性と多様性というのは、バッティングしがちだ。部長が熱血的である一方で、部下の数人はやたら冷めている、ということが組織ではよくある。だったら全員熱血している方が、特に営業組織においては、生産性は高まるように思える。
しかし全員男性、全員熱血系では、女性の繊細な視点は絶対に出てこないし、ビジネスチャンスをも逃すことになる。こういう職場には女性が必要だ。あるいはグローバル展開を考えて外国人もいたほうがいい。ポジティブな人たちばかりだと管理が甘くなるので、チクリという意見が光るネガティブな人もいた方がいい。
要するに何事にも言える通り、バランスの問題で、同一性と多様性のバランスをどうとっていくか、という当たり前の結論が出てくる。
 
では、このバランス、あるいは着地点について、その指標となる基準はあるのだろうか?それは作れるのだろうか?
僕は、冒頭の経験を経て、この問いにYesと答えられる状態に至った。
どこまで同一性を求め、どこまで多様性を求めるべきかの、なんとなくの基準が分かった気がした。
 
組織のトップが決定し、組織で共有されなければならないことは、同一性に関して、『この方向性だけは一致しておいてほしい』というデッドラインを定め、しつこく周知することだ。ここだけは譲れない、ここだけは死守してもらう、そうでなければ出て行ってもらう、というラインだ。
逆にこのデッドラインを定めずして、理念から価値観から行動指針から日々の活動まで全部が全部自分の言う方針に従ってくれと言ったら、その基準を満たせる人材というのはトップのクローン以外にないということになる。そしてデッドラインの認識すら一致していない集団が出来たとしたら、それはもはや多様性ではなく烏合の衆、あるいはただの動物園となる。
サッカーチームで言えば、ある監督がFWの選手への指示の出し方として、
『ユニフォームからして好きにしていい。あとは勝ちさえすれば自由だ』という論外な監督もいるだろう。これでは試合にならない。
『チーム指定のユニフォームを着ておいてほしい。あとは勝ちさえすれば自由だ』というアバウトな監督もいるだろう。
『チームユニフォーム着用とFWに関しては必ずフォアチェック(FWからプレスをかけること)を遵守してほしい。あとは勝ちさえすれば自由だ。』という普通の監督もいるだろう。
さらに、『チームユニフォーム着用とFWに関しては必ずフォアチェックの遵守と、そしてボールの貰い方は必ずポストプレイとして、左右にはたいて味方の上がりを待ち、厚みのある攻撃をしてほしい。あとは勝ちさえすれば自由だ。』とコト細かに決める監督もいあるだろう。
選手としては、どこまでが監督の求める同一性のデッドラインで、どこから先が自分のクリエイティビティに従ってプレーが許されるのかを、監督就任とともにきちんと判断出来ないといけない。
そうでないと、いくら華麗なプレーを見せたとしても、いずれ監督からは干されることになる。同一性のデッドラインを守れないからだ。
 
最近、一見強固に見えたある組織が瓦解するのを目の前で見た。今思えばそれぞれが力のあるメンバーで、かつ多様性もあったが、まるっきりデッドラインが守られていなかったし、それが必要だとも思われていなかったのでデッドライン自体が設定すらされていなかった。
全員が『この方向性!』という目的地を共有していたわけではなく、それぞれなりの『こっちの方向かな』というものは在ったにしても、それをすりあわせずして発進した結果、ものの見事に空中分解した。
当然だ。スタート直後から前輪は右に行こうとし、後輪は左に行こうとし、ハンドルは真っ直ぐになっており、エンジンは真後ろに進もうとしたからだ。
せめて、『目的地は大阪だ』だけではなく、『その途中の道路は東名高速を使うこと』という程度の同一性は担保すべきであった。つまりは高速料金の負担や、交通事故を起こしてしまうリスクを回避するための自動車保険の加入費、あるいは自転車では高速進入不可なので何かしらの四駆が必要、といった『大阪に向かうに至って支払うべき代償』に関する同一性の認識が最初からズレていた。
『大阪に行きたい!絶対に行きたい!』だけではダメなんだということがよく分かった事例だった。
 
僕のデッドラインで言えば、先に記した通り、劣勢となったときに意固地にならず、自分と原理原則がぶつかったときに、まよわず原理原則に従うことが出来るかどうか?が、羅王塾に在籍するための必須条件としている。
まぁそんなたいそうな会ではないので辞めるのは自由なのだけれど、それでもこういう基準でもない限り、高い熱量を持って学んでいくことは出来ないと、痛い経験から学んだのであった。
僕の師匠が『友人』として認めるデッドラインは、『自分よりマラソンが速くないこと』だ。それ以外であれば、色黒だろうが色白だろうが、太かろうが細かろうが、あまり関係ないんだとか。これほど明確なものはない。さすがだといつも思っている。シンプルすぎてふるえる。
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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!

我が人生に一片の悔いなし!!!

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