ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

人生とは、セパタクローのようなものである。 #749

time 2015/09/28


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人生の要諦はなんだと皆さんは思うだろうか?35年生きてきた僕は一つの結論に達している。

人生とは、あたかもセパタクローのようなものである。

セパタクローは東南アジアを起源とするスポーツで、バレーボールを足でやるような競技だ。人数こそ違うものの、『バレーボールを足でやる』と想像するだけでそれがいかに難易度の高いスポーツであるか、ご想像いただけることと思う。

僕が思う、人生とセパタクローの共通点は以下のようなものだ。

▼セパタクローでは、使いやすい手ではなく足でボールを処理しなくてはいけないらしい。(正確には手以外)レシーブも足、トスも足、アタックも足。限られた条件で『相手から点を取り、自らの失点を防ぐ』という目的を達成するために邁進する姿は、まるで人生そのものではないだろうか。

▼セパタクローでは、相手のコートにボールを突き刺すために、頭の上にあるボールをすら、バイシクルシュートみたいな感じで打ち返す必要があると聞いたことがある。自分の身長以上の高さにあるボールを打とうとするその姿勢が、常にチャレンジを必要とする人生に重ねられるのは、僕だけではあるまい。

▼セパタクローは、『セパタクロー』という単一の単語ではないそうだ。正確には、『Sepak(=マレー語で蹴るの意)』と『Takraw(=タイ語でボールの意)』が組み合わせて出来ている言葉だ。オリジナルではなく、ほとんどが既存の組み合わせで出来ている人生と、非常によく似ていると思う。

***

本の編集を職業とする豪腕な友人が、ついに『俺もそろそろ自分で本を書こうかな。』と言ってきた。どんな内容なのか尋ねると、

『トライアスロン式編集術』

という感じのタイトルにしようかなということだった。ターゲットは同じ編集者、もしくは本を出版しようとしている人たち。トライアスロンで学べるアレやコレを活用して、本を正しく合理的に効率的に編集して『売れる本』に仕立て上げるためには、何が必要なのか?何をやってはいけないのか?を詳述した本になりそうだとのことだった。

僕は『おお!最高ですね!是非書いてください!』と心からのエールを送っていた。しかし、ある一点のみの理由において、この企画はボツになった。

その友人には、トライアスロンの経験がなかった。

致命的な一打だった。

 

なぜこんな話になったかというと、実は昨今の出版業界では、『合気道をやったことがない人が合気道とビジネスの掛け算について書いた本』や、『離婚してる人が書いたパートナーシップの成功法則についての本』みたいな、

言わば『色黒の人が書いた美白本で、書いた本人はいまだに色黒』とすら言えるような本が横行していて、しかもそういう本にはタイトルがキャッチーなものが多く、中身の薄さに反比例して結構売れているのだそうだ。

そしてそういう本が売れてしまっているがゆえに、他の本に関しても出版社や編集者が対した吟味もせずに、また『53kgしかない僕が書いた、体重80kg以上の人のためのマラソン完走法』みたいな本が跋扈しているとのこと。話としては面白いが、そういう本は大抵中身がないため、そんなのを掴まされる消費者の立場からすると、なんとかしてほしいと思う。

 

ちなみにちなみに、冒頭に書いたセパタクローの例。想像つくと思うけれど、僕はセパタクローを見たこともやったこともない。人生と結びつけて書いてみたものの、足が全く地面についておらず、重厚感も説得力もゼロのような印象を与えている文章しか見事に書けていないのは、僕がセパタクローについて何も知らないし、経験も一切ないからだ。

全く知らず、経験もしていないことを書こうとすると、アウトプットとしては次の2つに大体分かれる。

1、文章がヘタクソな人の場合。

→知らないこと、やったことないことについて書くにあたり、言語化自体も得意ではないため、支離滅裂な文章になる。本人が理解していない、ということが文章のとっ散らかり方でよく分かる。

『らしい』、『だそうだ』、『かもしれない』、『と言われている』など、断定系が少なく伝聞系が多いのが特徴で、読む方からしても、『ああ、この人、知らないこと書いてるな』というのがよく分かる。このケースはわりと分かりやすいため、あまり気にしなくても良い。買った本、読んだブログがその類いだったら、捨てるかページを閉じるかすれば良い。

僕の人生×セパタクロー話についても、このタイプを見事に踏襲している。注意が必要なのは、次のタイプである。

 

2、文章力が標準以上のレベルの人の場合

→こちらに関しては、よくよく注意をしないと、無駄な文章を読んで無駄な時間を過ごすことになる。文章がそこそこ上手い人の場合、知らないこと、やったことないことに関しても、『それっぽく』書くことが出来る。

なんとなくそれっぽく見えるので読んでしまうのだけれど、最後までたどり着いた時点で気づくのは、『何かを書いているようで何も書いてない文章だった。』という悲しい事実だ。

留意すべき点は『具体例があるか?』、『微に入り細に入る話が1つでもあるか?』、『原理原則と例外のほどよい境界線について、その人なりの認識や定義があるか?』をよくチェックすることだ。文章が上手い人というのは、往々にして本質論を書くのを得意とする。『人生は、セパタクローのようなものである。』みたいな、なんか意味がありそうなことを、平気で言ったり書いたりする。

ところが、自分のなじみのない分野に関して文章を書くと、誰もがうなづきそうな本質論までで話が終わる。体温を感じさせる具体例、体験談が一つも出てこない。『貯金のコツは、収入から支出を引いた残りをきちんと口座に残すことである。』と書いてあって、それで主張が終わっていたら、恐らくはこの人は貯金をしていないと判断して差し支えない。

きちんと貯金をしている、貯金経験がある、あるいは借金経験がある人だったら、原理原則以外にその適用のためのコツや、あるいはしてはいけないタブー、失敗談に関しても記述があってしかるべきである。それすらなければ、恐らくはママにおこづかいをもらって生活しているFPもどきである可能性が高い。

文章のつまらない人の文章というのは、往々にして本質論しか書いてない場合が多い。その人が優秀すぎて本質論しかかけない場合というのもある。翼君が、『ボールはともだちさ!』と言っていたが、それを言っていいのは翼君であって、石崎くんではない。『オラ、つええヤツと戦いてぇぞ!』と言っていいのは悟空だけであって、ヤムチャがそれを言ったら『まずはブルマの家を出て修行しろ』と言うべきである。

話は逸れたけれど、ヤムチャが『ナメック星にわずか7日でたどり着ける宇宙船の設計の仕方』なんてことを語ってもそれはアウト。それはブリーフ博士の著書であるべきであって、ヤムチャではないということ。(ただし、ヤムチャが『精神と時の部屋』に100日間入って、つまり100年間分の時間を使ってその技術を勉強したとしたら、語る資格は多いにある。実際にやってなくても、その研究をがっつりしてれば、それは経験に代替できる。)

勿論、全員が全員、自分の分野についてトップ0.1%レベルで極めているわけではないし、極めていないものに関しては一切語るな、というつもりもない。

『やってから言え!』と断定的に言うつもりもない。安保の話は、軍人だけがしてればいい話ではないし、語ってる人の大半は戦場経験のない人たちである。

そんな言論統制的なことを言いたいわけでは一切ないのだけれど、なんかしっくりこないなーと思う情報発信が個人ブログにしろBlogosのような認知度の高いメディアにしても出版界にしても横行している気がするので、ちょっと書いてみた。孫さんは決して増毛の話をしない。見上げた開き直り方だと思う。

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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!

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羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

「ラオウを目指す羅王のブログ」にようこそ。修羅が蔓延る世紀末の日本を、「北斗剛掌派」という思想体系を以て変える活動をしています。我が生涯に一片の悔いなし!と言える人生を送るため、101回目のダイエットに励んでいます。