ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

「他人がバカに見える瞬間」が訪れたときの対処方法 #848

time 2016/01/06


 

聖人君子には関係のない話なのだけれど、多くの人には「他人がバカに見える瞬間」というのが人生の何カ所かであったことだろうと思う。

ないどすか?ないならこの先読まないでオッケー。あなたは相当に出来た人間なんだろう。そうではない一般的な人たちは一読いただきたい。

僕は正直言えばある。たまにではなく、結構ある。皆さんどうなんでしょ?

断っておくと、この「他人がバカに見える瞬間」というのは、人間の成長には必須の要素であると思っていて、ある程度の高みを目指すのであれば避けては通れないチェックポイントだと僕は考えている。

ただ勘違いしてはいけないのは、この「他人がバカに見える瞬間」には2つの種類があって、言うなればGood版とBad版がある。そもそも「他人がバカに見えてる」という時点で相当にBadなのだけれど、その存在理由については後述するとして、Good版とBad版というのはどんな場合かについて、少し書いてみたい。

※「バカに見える」ってのは色んな意味を総括しての言葉なので、「優越感を感じる」とか、「自分の全知全能を感じる」とかに置き換えてもよしです。

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まずBad版。よろしくないほうの「他人がバカに見える瞬間」とは、どういうときだろうか?

僕の解釈では、下記の事例が代表的なものだ。

▼子どもがしょうもないところで計算ミスをしてる姿を見て笑う。

▼障がい者の方、高齢者、妊婦さんが歩くのや階段や荷物運びに難儀しているのを見て「遅い」と感じる。

▼5年目の社員が新入1年目の社員のポカを蔑む。

などなど。

まぁ見て分かる通り、人間としてこれはダメだろうと思うものばかりだけれど、実際にこういうふうに、「目下格下の人間、様々な理由で一部機能不全な人間、実力や経験が下の人間」に対して「バカだな」と感じてる輩は残念ながら世の中に結構な数いるっぽい。

でなければ、電車の中で子どもが泣いてそれにキレるヤツもいないだろうし、「お前なんて私の子どもなんだから◯◯大合格なんて無理」と子どもの自己概念を無駄に下げまくる親なんて存在するはずがない。

以上のようなものは、僕はBad版「他人がバカに見える瞬間」と捉えている。これは絶対にやってはいけない。

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ではGood版とはどういう場合を指すのだろう?成長の過程として避けられない、「他人がバカに見える瞬間」というのは、一体どういう理屈を持って正当化されるのだろう?

いくつか一般的な具体例を挙げてみたい。

▼フルマラソンやウルトラマラソン、アイアンマンを完走するようになったら、色白細めネガティブ男子は世の中に存在しなくて良いと考えるようになった。(これは僕の実例。以前から思ってたがより強く確信した。)

▼セミナーに参加したら、そこで「自分の信念に従って自由に生きる生き方」を学んだ。会社に帰ってみたら、同僚や先輩がそうではない生き方をしてる人たちばかりに見えて、ため息が出た。

▼歴史を勉強したら、特に近現代史に関して様々なことを学ぶことが出来た。歴史は、ビジネスパーソンであれば必須教養であることが分かった。すると、単なる話し合い、非戦を叫ぶSEALDsが本当に何も分かっていないただの「輩」に見えて仕方がなくなった。能天気に新橋で飲んだくれてるサラリーマンを見ると日本の将来が心配になる。

どうだろうか?ちょっとでも自己投資をしたことのある人なら、「意識高い系」の人なら、限界突破経験のある人なら、こういう経験はないだろうか?

僕はある。ちなみに「色白細めネガティブ男子撲滅計画」を密かに立てているのは秘密。

 

これらに共通するのは、

自身のステージがあるきっかけで上がったと同時に、以前自分のいたのと同じ場所に属している人たちがバカに見える

てな現象であるという点だ。

考えてみれば滑稽に過ぎない話なんだけど、自分が元々細かったくせに、自分が元々セミナーとか自己投資に興味のないその日暮らしだったくせに、自分が歴史の「れ」の字すら知らなかった人間のくせに、そういう世界をちょっと知っただけで、それを知らない人たちをバカにするようになる。

自分は違うんだ。世の人とは異なることを知ってるんだという気になる。それまで自分がいた場所をすら、言わば全否定し、可哀想な目で見るようになる。

僕が「色白でプニプニした子には極めて良い子かもしくは悪女しかいない。こじはるはたぶん後者」と、ほとんどの人が気づいていない世の真実に気づいているように、なぜか「このことを知ってるのは仲間内で俺だけだ感」が出てくる。

僕は、自分のステージが上がるたびに、こういう感情を少なからぬ回数感じてきて、そのたびにそんな自分を嫌忌してきた。なんで毎回感じるんだろう?と悩んだこともあった。

しかし最近気づいた。これは生理現象であって、性格の問題ではない。自然なことであって、非情なことではない。人間の性であって、僕が欠格野郎な訳ではない。

こういう感情が起きることは、とても当たり前のことだと思った方が、その後の対処がしやすかった。「他人がバカに見える瞬間」というのは、ある意味、成長の局面で仕方なく湧いてくる感情なのだと、諦めることにした。あとはどうするかが問題だった。

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こう考えるようにした。具体的には3つの考え方を採用した。

まず、「他人がバカに見える瞬間」が訪れたということが、それがGood版である限りは、とりあえずは自分のステージが何かしら上がったという証明であり、素直に喜ぶようにしようと考えた。

本当なら「他人がバカに見える瞬間」を一切感じずに、自分のステージを上げられれば良いのだけれど、そうもいかないのが人間らしい。だって全ての人間が聖人君子なら、世の中に差別や戦争や虐待はとっくになくなってるはずだから。

 

次に、他人がバカに見えてる時点で、「自分はその程度のことしか考えられないほど自分が未熟な人間である」という不都合な真実を、そのまま受け入れるよう努力した。

誰しも、自分を否定することは得意ではない。でも僕は、成長には「自己の健全な否定を繰り返すこと」が絶対に必要だと思っている。

 

最後に、「他人がバカに見えてる」という状態が実際はどんな状態なのか、具体的な他者との位置関係の把握に努めた。

まともな大人は、生まれたばかりの赤ちゃんが立てないし食べられないからといってバカにしない。(計算をミスる子どもをバカにする親は何故かいるが、それは無視。)イチロー選手は、少年野球の少年が空振りばかりしてるからといってバカにしない。一流の料理人は、子どもが家庭科で作った稚拙な料理を食べてもバカにしない。

つまり、人間は自他ともに認めるほど自分の方が優れている場合は、相手をバカにしたりしない。相手がどんなにへたっぴでも、ミスを犯しても、稚拙でも、温かい目で見守ることが出来る。

そして実は、自分に近い距離にいる人のうち、ほんのちょっとだけその人よりも自分が先に言っていると認識したときに、人は人をバカにするようになる。レギュラーは補欠に、先に昇格した人間は昇格しなかった同僚に対して、そういう感情を感じるようになる。

裏を返せば、「その程度の差」しかないということだ。半馬身、もしくはせいぜい1馬身。それだけしか離れていない相手に対して、「他人がバカに見える瞬間」が訪れる。

それさえ分かれば、

圧倒的な差を付けてるわけでもないのに、ちょっとしたきっかけで生まれたほんのわずかな差を喜んでるだけのイタいヤツ

という烙印を自分に押せば良い。僕はそんな烙印、絶対に欲しくない。人にバカにされたときも、この烙印をソイツに押してやればいい。とても可哀想なヤツに見えてくるはずだし、腹も立たなくなるはずだ。

 

以上3つを駆使すれば、「他人がバカに見える瞬間」という生理現象も、上手にコントロールできるようになる。未熟人間が、半熟人間ぐらいにはなれるだろうことと思う。

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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

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羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

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