ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

ブログは長く書くべきか短くべきか論争に対する一考察 #881

time 2016/02/08


 

goats-173940_1280

※本ブログ自体が長いです。

最近、ある塾コミュニティで、

「長いブログ撲滅運動」

VS

「長いブログ撲滅運動に対する反対運動」

という2つの運動がガチンコで展開されている。僕は文体からして明らかに後者に属するので、その思うところを述べてみたい。

***

事の発端は、ブログを書いているある塾生が言い出したことだった。(らしい。というのは、発端が誰かは僕は知らない。追っかけてないので。)数人のブログを読むと、おおよそこういうことを言っているようだった。

▼ブログは読まれるために書くもの。

▼なので最後まで読まれないとアウト。

▼長いってことは、端的に言う能力の欠如じゃん。

▼ていうか長いと疲れるし、その時点で顧客目線じゃなくね?

「そーだそーだ!」と賛同した人が結構いた気がする。僕はブログは一定量を書くべきものだと思っていたので、この考えは新鮮だった。

んで改めて考えてみたが、考えれば考えるほど僕は「長いブログ撲滅運動に対する反対運動」側の人間なので、その根拠を以下に並べてみたいと思う。

ちなみに、僕自身は「ブログは長く書けばいい」と思ってるわけではない。が、長く書くメリットはあると思っている。結構あると思っている。ということで、「長いブログ撲滅運動に対する反対運動」的視点と、「長いブログ推し推し運動」のあいのこみたいな意見になるかと思う。

***

羅王ブログ論その1:短いブログには力量が必要

そのコミュニティの塾長のブログに書いてある通りで、読み切らせるだけなら短くてもいいが、そこから「ほぉぉ!」、「へぇぇ!!」、「ふしゅぅぅぅぅ!!!」と思わせるには、相当な力量が必要。

サッカーの超一流選手のプレーがシンプルに見えるのは、彼らの実力が超一流だからだ。全てのプレーが極限まで研ぎすまされ、無駄が削ぎ落とされている。だから一部のプレーはゆったりして見える。

一方の高校サッカーは、もっとごちゃごちゃしている。なんだかよく分からないパスやフェイントが多いし、無駄な走りも多い。そして、当たり前だけれど、高校サッカーの領域を経験してからでなければ、バルセロナの域へは到底たどり着けない。

実力のない者が短いブログを書くと、それは「高校サッカー選手がバルセロナの選手みたいにゆったりプレーする」のと同じになってしまうのではないかと思う。それは美しさやシンプルさではなくて、単なる怠慢だ。それではよく走るだけのチームにすら負ける。

ごちゃごちゃプレーする(=長いブログ)のは、ゆったりしたプレー(=短いブログ)への過渡期に必要なのだ。

ちなみに文章界のメッシと言えば圧倒的に田中芳樹。ふとしたタイミングで書かれる、「たった一文で歴史の全てを語る」文章が、何度読んでもしびれる。ブログを書く人必携の書。ただのSFではない。これは偉大なる歴史小説だ。

 

 

羅王ブログ論その2:自身のPDCAを回すには、一定の分量があった方が良い

ブログを宣伝ツールとしか考えてない人には関係のない話になるが、、ブログは自身のPDCAを回す効果もある。

個人は大体1年に1回自身を振り返る。1月1日に決意して、12月31日に後悔するアレだ。

それを、企業のように四半期に1回振り返るのと、月1で振り返るのと、週1で振り返るのと、毎日振り返るのでは、どの人間が一番、自身のPDCAを回すことができるだろうか?いわんやをやである。

ブログには、毎日自分を0.1%ぐらいは成長させる力がある。

ただその内容があまりに短いと、内容は抽象的にならざるを得なくなる。「今日は仕事をした。昨日も仕事だった。一昨日も。仕事とは、すなわちトイレと同様の無意識的動作の積み重ねである。」みたいな、分かったような分からないような文章になる。

抽象的だとそれはそれで適用範囲が広くなって良いのだけれど、日々の出来事は極めて具体的な事象の連続だ。人間の成長プロセスというのは、具体的事象を複数経験するなかで一定の法則を見出して抽象化し、それを他の具体的事象に適用するときに表出するものだと思う。

赤ちゃんが起きる、食べる、遊ぶ、寝るというのは、抽象的に言葉にしてみれば日々同じことの繰り返し。

しかし、実際に見ていると面白いぐらい毎日違う。上手に寝られた日、いつまでも寝られなかった日、パッと起きられた日、起きるかと思ったら寝たけどそう思ってたけど起きたフリをしてそのまま起きるかと思いきややはり寝たと思わせて起きた日。

全部違う。だから、僕はより具体的に書いておきたい。結果、長くなる。

IMG_0255

 

羅王ブログ論その3:長いブログは後世への遺言になる

僕はこのブログを、「娘たちへの遺言」というサブテーマで書いている。

彼女たちが自分の子を育てる時代になったら、どこかで見つけて改めて読んでほしいと思っている。

父は若い頃に、どんなことを感じていたのか。

父は若い頃に、どんな壁にぶつかっていたのか。

父は若い頃に、どのようにして自分の乳を娘に吸わせていたのか。

父は自分の父が「羅王の父です。」と言って高校生のときに初めて連れてきた彼女の乳をずっと見ていたことを、どう思っていたのか。

そんなことを、後世に遺したい。娘たちだけじゃなくて、何なら100年でも200年先までも遺せたらいいなと思ってる。「300年前のご先祖様は、下痢で苦しんでたんだ?今は特効薬あるのに。」とか思ってもらいたい。

人はある一定の年齢に達したりシチュエーションに遭遇すると、途端に先人の想いを知りたくなる瞬間が来る。父や母、祖父や祖母、そしてご先祖様は、自分と同じ年齢のときにどんなことを考えていたんだろうか?そんなことを知りたくなる。

ブログはそんなふうにも使える。なのに、

「青い空が素敵、白い雲も素敵。好物はステーキ。焼肉屋でカクテキ。」

とか言ってるだけのブログが残ってたら、さすがに後世の人たちも参考にはしてくれまい。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。せっかくなら、後世の賢者が学ぶ歴史を遺そうではないか。

 

 

羅王ブログ論その4:一般人の短いブログは、「だからなんだよ!」と思われやすい

ちと厳しい話。有名な人、実力のある人が短いブログで何かを表現すると、そりゃそうだ!賛成!となる。

しかし、有名でもなく実力もない人が短いブログで表現しても、「どの口が言っとんねん!」、「どのレベルでゆうとんねん!」となりがち。

分かりやすく言えば、草野球でベンチすら入れない腹の出たおっちゃんが、

「ホームランはな、ボールとの対話やで。最後は。」

とかいう名言を吐いたところで、それは確かに真実かもしれないが、迷言にしか聞こえない。

北斗晶が作ったオムライスをブログに単に載せただけでも話題になるが、一般人が同じことしてもあまり意味はないのである。一般人が書くのであれば、美味しいオムライスとマズいオムライスの作り方の違いをブレイクダウンして言語化出来ていれば、読む価値があると思う。

 

 

羅王ブログ論その5:短いブログだと、単純に言語化能力がつきにくいからもったいない

せっかくブログを書くのなら、ブログを書くことそのものからも能力の向上効果を得られてしかるべきだと僕は思っている。

んで、それは短いブログを書くよりも長いブログを書く方がはるかに鍛えられる。

試しに、「初フルマラソンに出ました!」て話を、1話で終わらせずに全20話ぐらいで書いてみればいい。「初フルマラソンに出て、死にかけましたぁ〜!」的なシンプルなブログよりも、絶対に言語化能力が上がる。

全20話で書こうとすると結構大変だ。単に「走って大変だった。」だけであれば、そう大変ではない。しかし20話も書こうとすると、話はレース本番だけではなく、準備、トレーニング、兵站、装備、戦略、戦術、哲学、自身の心との向き合い方、人生理念などに飛ばざるを得ない。

畢竟、あらゆる分野に関する言語化能力が強制的に開発される。

言語化能力が身に付くと、他者とのコミュニケーション効率が上がる、営業能力が身に付く、当然文章も上手くなる、抽象化能力が上がり、意思決定が身に付く。新しいことを始めるときの勘所も分かるようになるので、時間の短縮にもつながる。プレゼンのレベルは、格段に上がる。

これからは個の時代。話は端折るけれど、言語化能力は鍛えておいて損はない。そして、それは長いブログの方が鍛えられる。

 

以上があたくしの「長いブログ撲滅運動に対する反対運動」派としての主張。

長くてすみまそん。

ここまで読まない人がいるから短い方がいいんだよね。わかるわかるわかるわかるぅぅぅぅぅぅぅぅ!!!!

***

世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!

我が人生に一片の悔いなし!!!

 

ラオウを目指す羅王のブログ

羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

「ラオウを目指す羅王のブログ」にようこそ。修羅が蔓延る世紀末の日本を、「北斗剛掌派」という思想体系を以て変える活動をしています。我が生涯に一片の悔いなし!と言える人生を送るため、101回目のダイエットに励んでいます。