「3.11で思うこと」を読んで3.11に思うこと #913


 

今日は何の日かというと、「3.11」である。

現代日本にとって、もしかしたら8月15日よりも大事な日だ。日本の全てが変わった日。

んで、何かしら書こうと思っていたら、こちらの方のエントリを読んで面食らってしまった。

3.11で思うこと

なんというか、衝撃。

「かわいそう」とか「お気の毒に」という言葉すら受け付けない、当人のみが持ちうる、乗り越えた人の強さを感じた。

同時に、中途半端な気持ちで書くのはいかんな、と、筆が急に重くなってしまった。結果、何週間も経ってしまった。

過去に3.11に関して、僕は2つのエントリを書いていた。読み返してみても、当事者からはほど遠い記述である点に関して、ちょっとした罪悪感を感じてしまうことは避けられなかった。

2013年のエントリ 3.11という日

2015年のエントリ 今日は3.11です

(他のエントリはブログ移籍時に行方不明に)

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文中、authorのひかるさんはこう書いている。

’本気でそう(「震災を忘れない」と)思っている人は「常に忘れていない」し、忘れることなんてできない。’

 

確かにその通りで、ひかるさんが肉親を震災で亡くしている一方で、正直なところ何も無くしていないし誰も亡くしていない僕が、3.11を「常に忘れない」ことなんてできないし、なんなら3.11以外の日はそれ以外のことで頭が一杯になっている。

3.11以外の日に、3.11が頭の中で娘のお見送りや仕事の締めに優先することはまずない。3.11当日ですら、では日常業務や生活を全て投げ打ってまで3.11で犠牲になった方々、遺された方々のために何かをしているかというと、そうではない。しているのは募金ぐらいである。

だから、僕にはひかるさんの言う通り、エラそうに「忘れない」という資格なんてない、そう思っていた。だから、なかなか書くことが出来なかった。

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んが、よく考えてみたら、当事者ではないくせに当事者ぶるのもおかしいし、当事者じゃないならそのことに一言も触れてはいけないかというと、そうでもないなと思うようになった。

僕は聖人君子ではない。聖人君子ではないので、3.11以外の日に、3.11のことを思い出すということは、正直なところ難しい。

でも平民は平民なりに、3.11当日になれば、3.11のことを少なからず考えることができる。そしてそれが無駄なこと、失礼なこと、無意味なことかというと、どうやらそうではないのではないかと僕は思っている。

当事者の100の想いには、計りきれない重さがある。それはその通りだと思う。

でも、世の中の99%の人は当事者ではない。3.11に関して言えば、1億2000万人のうち、亡くなった方は2万人強。遺族や関係者を合わせても、やはり99%は当事者ではない。

その当事者ではない人たちが100人集まれば、それぞれが1の想いしか持っていなかったとしても、100の質量を持つことになる。

当事者の100と、当事者ではない人たち100人の100では、勿論その重さは全く同じではない。しかし、僕は当事者ではない人たち100人の想い100も、それはそれで3.11から日本が立ち直ることを本気で考えるのであれば、必要なのではないかと思うのだ。

それは募金かもしれない。それは被災地支援に関する何らの関与かもしれない。あるいは単にそれは「忘れない」とfb上にシェアするだけかもしれない。もしくは「忘れない」と心の中で思うだけなのかもしれない。

当事者の人たちからしたら、「なにそれ?」と思うような軽い何かしか出来ないかもしれないけれど、僕はそれでも平民なりに、ちょっとでも3.11のことを考えたい。当事者ではないからこそ、ほんの1でもいいから、3.11のことを考える質量を、誰かに届けたい。

それが仮に年に1回限定の偽善に満ちた自己満足であったとしても、無いことよりは在ることの方に価値を見出したいと思っている。

ガンを治す名医が、必ずしもガンに罹患している必要はないのだ。

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で、本論の3.11について最後に少しだけ書いておいく。

3.11で日本が失ったものは、沢山あった。多くの命、安全神話、政府へのかろうじて残っていたなけなしの信頼。挙げればキリがない。

しかし一方で、3.11を機に、日本にもたらしてくれたものが、少なからずあったように感じている。有形のものではない。無形のなにかだ。それは一言では表しにくく、容易には実感しにくく、得たいと思ったから得られる性質のものでもない。

頑張って具体的に言うと、戦後からこれまで経済成長を追い求めるのみで、ほんの一部の人以外は全く僕たちが意に介してこなかった、「日本という国に対する誇り」や、「日本人であることに対する誇り」がそれだ。

かく言う僕がそうで、日本という国に対しても日本人であることに対しても、「埃」がかぶってるなと感じたことはあっても、「誇り」を感じるなどということは、それまであまりなかった。

「日本の飯は旨い」とか「日本製品の品質はいい」と思うことはあっても、「日本っていい」、「日本人って素晴らしい」と思うことは、あまりなかった。(海外礼賛型の生い立ちのせいもあるが。)

非国民極まりない人間だったことはさておいて、僕のように内側から湧き上がる、自分のルーツに対する「誇り」を感じる用になった人は、3.11を境に決して少なくない数、存在しているのではないかと思う。

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勿論、「誇り」はそのままにしておくと、それはまたいずれは「埃」となる。

「おぼっちゃまくん」で、登場人物のライバルであるびんぼっちゃまは、昔金持ちだった頃に豪邸の部屋の隅に溜まっていた「埃」を、「落ちぶれても元上流階級」の「誇り」として金庫に大事に保管していた。

それと同じように、ただ「誇り」を大事にするだけでは、単に自国と自国民を誇り高く思うだけの、どうしようもない国に住むどうしようもない国民に成り下がってしまう。

具体的に動く必要がある。具体的な成果を出す必要がある。そのために具体的なトライ&エラーを積み重ねる必要がある。

それが何かはこれから時を重ねながら考えて行動していきたいと思っているけれど、とにもかくにも僕のような軽い人間のなかに、「誇り」が芽生えたこと、またそういう人間が決して少なくないことは、3.11がもたらした多くの悲劇のなかに埋もれた、ほんの一筋の光だったように思う。

日本は良い国だ。

日本人は素晴らしい国民だ。

これは本心からそう思う。

 

 

亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

被災された方の心身経済伴った快復を祈念しております。

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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!

我が人生に一片の悔いなし!!!

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