先日、「スラムダンク」世代なら泣いて喜びそうな名前の高校で講演する機会をいただいた話をしたわたくし。
スラムダンク感溢れる高校で講演してきた話 その1
スラムダンク感溢れる高校で講演してきた話 その2
スラムダンク感溢れる高校で講演してきた話 その3
今度は、自分の高校に行ってきたであります。
今ではアメフト系とか格闘技系と言われ、実際はウルトラマラソンやトライアスロンをやってる僕も、高校生の頃は身長は今と同じ、体重は63kgほどのスリム男子(現在は+22kgほど)で、Jリーグ開幕直前直後の熱狂の時代に毎日サッカーボールを蹴って過ごしていた。
そんな青春時代を過ごしたサッカー部に、あろうことか卒業後約20年ほど全く顔を出していなかったのだけれど、突如思い立ってOB会に行ってみた話をしてみたい。
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やってきたのは卒業生の間では通称「附高」と呼ばれる高校。
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当時の正式名称は、
東京学芸大学教育学部附属高等学校
という。
すげー長い。大学の願書や履歴書とかで正確を期することを要求されるため、毎度書くのに苦労した気がする。学校側もめんどくさくなったのか、最近は「教育学部」を取ったらしいけれど、それでも長い。
さらに、「附属」とついてるわりに、小学校はいいとして、中学校、高校、果ては大学まで、一貫して都度の受験を必要とする。特に中学から高校は半分ぐらい落ちるというハードルの高さ。
全然附属してねーじゃねーか!
と入学してから憤りにかられた人も、決して少なくなかったと思われる。
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なぜ卒業以来一度も顔を出していない高校サッカー部のOB会に、突如参加することにしたのか?
顔を出していないということは顔見知りもあまりいない、サッカーも当然衰えている(そもそも当時から上手くない)、周りからは「君、誰?」と見られることは疑いない。
普通であれば、これから先の20年も今までと同様に顔を出さなくても一向に不思議ではない。
結論としては、「なんとなく」としか言えない。しかしこの「なんとなく」について少し話しておきたい。
なぜなら、過去約20年の間参加しなかった理由も、本当に「なんとなく」であったからだ。
***
高校を卒業してから30半ばに至るまで、僕は基本的には前を向いて過ごしてきた。格好よく言えば、心もカラダも未来に向けて生きてきた。
大学生活は刺激の連続だったし、社会人生活はさらに刺激の連続だった。今の生命保険の仕事は人生の1/3弱に相当する丸10年を捧げてきたけれど、無知の知が広がるばかり。奥は限りなく深いと感じている。
かたや、「OB会」というのはそれが部活のものであれ学校のものであれ、「単に過去をなつかしむ会」であると僕は考えていた。当時の考え方からすると、「後ろを向いてどうすんだ」とすら思っていた。だいぶ偏っていたと自分でも反省しているが、若いときはしょうがない。
小学生のサッカーがサッカーをするときに、ゴールしか見てないのと同じだ。
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ところが、誰でもそうであるように、やはり僕にも色々あった。「人生〜、いろいろ」とはよく言ったものだ。1995年頃に大流行りしたTV番組「ボキャブラ天国」で「先生〜、色黒」とパロっていたことも同時に思い出す。
高校生のときには、あるいは大学生や社会人になって数年程度の頃には想像も出来なかったことが、人生には起きる。
まず、僕は自分が結婚するとは思っていなかった。ところが、今は同期に比べても極めて早い段階で、「夫」という位置におさまっている。「戦略」という言葉の意味を知った経験だった。
子どもができるなんてことも考えていなかった。しかし今は「父親」として、二匹の女珍獣たちに翻弄される毎日を送っている。「目に入れても痛くない」というのは本当だった。
更に、人が死ぬということも、想像の範囲外だった。幸い、家族皆健康で生きてきた僕には、「死」というものは基本的には遠い存在だった。
しかし医師ほどではないにしても、この仕事をしていると否が応でも「死」について考えざるを得ない。そして時には顧客や友人の訃報に真正面から向かい合わなければならない。つい最近もそんなことがあって、しばらく動けなかった。
***
そんななかで、昔は聞き流していたおかんの言葉が、時を超えて耳にこだましてきた。
「ある一定の年齢になるとね、自分の親のことが知りたくなるのよ。」
当時は、ふーん、としか思わなかった。いつも「どれだけ自分が身を粉にして君たち(=僕と弟)の世話をしてきたか」について熱弁を振るうおかんにしては、珍しく格言めいたことを言ったなと思っただけだ。
でも、今は「なんとなく」分かる。自分の命が、子どもの頃や若い頃のように永遠だと思っていたときには、分からなかった感覚。それが実は有限で、極めてfragileで様々な偶然の上に奇跡的に成り立っているものであると知ったときに、人は大切なことに気づくのかもしれない。
自分のルーツとか、系譜とか、そういうものに対する興味が俄然湧いてきた。
それ以来、家に帰って二匹の女珍獣たちを見るにつけ、「この子たちに何を遺せるかな」ということを、これまた「なんとなく」考え始めた。
家とか財産とか教育とか、そういうものだけじゃなく、もっと拡げて生活とか地域とか社会とか国とか、「幸せ」にまつわるそのへんのものを全部一緒くたにして、今よりもっと良い形で遺したい、と思うようになった。
ブログを書いているのも、ひとつは「遺言」という側面がある。
そして同時に思った。
「遺すもなにも、俺、自分の辿ってきた道のことすら、分かってないやん」
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まとめると、こういうことである。
医師になるには医師免許という資格が要る。先生になるには教員免許という資格が要る。税理士もそう、会計士もそう。
ならば、何かを遺すと決めた人間には、これまた何らかの資格が必要なんじゃなかろうか、と考えたのだ。
そしてその資格は、たぶん学力とかではない。人格もちゃんとしてたほうがいいけれど、そういうものでもない。知識でもないし、経験値だけでもない。
では何か?
それは、
過去や歴史を積極的に知ろうとすること
ではないかと僕は考えた。
大事なのは、絶対的な高度ではなく、そのベクトルである。必ずしも、今現在、無知でも構わない。現に僕は完全に無知である。
しかし、何かを遺そうとするのであれば、少なくない程度、過去や歴史について知ろうと努力することが大切であると、僕は思う。それがないと、遺すもくそもない。伝統は、それを知るもののみが遺すことができる。現在の無知は仕方ないが、無知のままでいること、そしてそれを甘受することはよろしくない。
それは、二匹の女珍獣たちに何かを伝える資格を失うことであり、同時に僕の今の生き甲斐のひとつを放棄することでもある。
 
ということで、「なんとなく」未来にしか向いていなかった僕の思考と行動が、「なんとなく」過去に向かって前向きに方向転換をし始めたのがここ最近のことであり、だからして無知の極みであった高校サッカー部OB会にも、約20年ぶりながら「なんとなく」参加することに決めたのであった。
OB会に参加することを決めたとき、僕は緊張と不安で少々ナーバスであったが、ようやく最初の一歩を踏み出せたことに、少なからぬ安堵感を感じていた。
そして同時に、うっかりとても大事なことを忘れていた。
 
 
 
高校サッカー部とは、理不尽と非合理が巣食う怪獣たちの楽園である
 
 
 
という原理原則を。
 
つづく。
***

世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!

我が人生に一片の悔いなし!!!

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