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退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

敗軍の将、兵站を語る〜第3回みちのく津軽ジャーニーラン188kmリタイヤ伝⑦〜 #1314

time 2018/07/23


 

※野辺山ウルトラ2018完走記の途中ではありますが、予定を変更して「敗軍の将、兵を語るシリーズ」をお送りします。

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走ることについて語るときに村上春樹氏の語ること

村上春樹氏は、著書「走ることについて語るときに僕の語ること」の中で、名言をいくつも残している。意外と知られていない、というか僕も知らなかったけれど、村上春樹氏はどこかの旅館に閉じこもって小説を描きまくるタイプではなく、場合によっては月間300kmも走っている、アスリートな一面を持っている。ちなみにフルマラソンのタイムは3時間半ちょっとで、僕よりはるかに速い。

 

 

サマセット・モームは「どんな髭剃りにも哲学がある」と書いている。どんなつまらないことでも、日々続けていれば、そこには何かしらの観照のようなものが生まれるということなのだろう。

 

“Pain is inevitable, suffering is optional.” (中略)敢えてごく簡単に訳せば、「痛みは避けがたいが、苦しみはこちら次第」ということになる。たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられているということである。

 

継続すること-リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。いったんリズムが設定されてしまえば、あとはなんとでもなる。しかし弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。

 

昨日の自分をわずかでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだから。

 

失敗の原因ははっきりしていた。走り込みの不足、走り込みの不足、走り込みの不足。これに尽きる。

 

忙しいからといって手を抜いたり、やめたりするわけにはいかない。もし忙しいからというだけで走るのをやめたら、間違いなく一生走れなくなってしまう。走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱい分はあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇を見つけては、せっせと磨き続けること。

 

どんなに走るスピードが落ちたとしても、歩くわけにはいかない。それがルールだ。もし自分が決めたルールを一度でも破ったら、この先更にたくさんのルールを破ることになるだろうし、そうなったら、このレースを完走することはむずかしくなる。

 

書かれていること全てが本質的であり、僕が今回完走できなかった理由をも的確に突いてくれている。

では今回のレース、僕は何を考え、何を学んだのか。北斗剛掌派的見地から、書き記しておきたい。

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超ウルトラを走ることについて語るときに世紀末覇者として語ること

村上春樹氏ほど立派な言葉で走ることを表現することはできないけれど、死にそうな思いをしながら188kmのゴールを目指しているときに、

時に暑さに辟易しながら、時に自然の美しさに驚嘆しながら、時に暗闇に絶望しながら、時に幻覚を見ながら、幾百回も自身に問い続けた「なぜ(100km以上の)超ウルトラを走るのか?」、「超ウルトラを走ることで得られるものは何か?」について、世紀末覇者的見地から綴っておきたい。

 

1、Discipline, Discipline,Discipline。成功するためには、成功に至るためのDisciplineが全て。

人生をそれなりの年数長く生きていると、結局のところその人間が持つDiscipline(規律、決め事、生活習慣、生理的反応)が、その人間を形成していることがわかる。

たとえば、困難に直面したときに、それに立ち向かうDisciplineを持っている人もいれば、そこから逃げることを前提とするDisciplineを持っている人もいる。どちらが人生の可能性をより大きく追求できるかといえば、なんとなく想像はつくだろうと思う。

同じ業界で働く僕の知人に「月10軒のお客様と絶対に契約する」というDisciplineを持っている人間がいるが、彼は契約高の大小ではなく、件数を徹底的に追っている。そしてなんとなく分かると思うけれど、彼はトップセールスの一人であり、そしてそこから脱落することがまずない。

なぜか?結局のところ、セールスは長く続ければ続けるほど、それまでに積み上げた顧客件数がモノを言ってくるからだ。セールスというのは結局のところ、1人でも多くの顧客に、我が社の◯◯という素晴らしい商品/ソリューションを通じて◯◯をお届けする、という行為である。だから、彼がそのKPIを件数に置いたのは、絶対的に正しい。

1件デカイ契約が入ったからといってサボる一般の営業パーソンとは、ワケが違い、契約がデカかろうが並だろうが、淡々としている。その淡々さが恐ろしい。

 

ウルトラマラソンを含む超ウルトラは、まさにそのDisciplineとの戦いだ。完走という目標に対して正しいDisciplineを自分がどれだけ持てているか、自分で決めたDisciplineに対してどれだけ忠実でいられるか、あるいは自分は自分で決めたことすら守れない人間なのかが残酷なまでに証明される。

外部要因は極めて少なく、ほぼ全ては自分次第。キロ7分で走ると決めたらキロ7分で走る。ただそれだけのことなのだけれど、それがレース中盤、終盤とくるにつれてとてつもなく苦しくなってくる。

その原因を特定し、対策を打ち、自らの決めたDisciplineにしたがって物事を進める。その訓練に、超ウルトラはもってこい。大概、人は疲労とともに自分に対して甘くなる。さて、疲労した状態でもDiscipline通りに走るにはどうしたらいいかね?なんてことを考えながら走っている。

だいたいの人は、自分が元気なときに決めたDisciplineを、いかなる時でも遵守できるようになれば、その人の思い描く人生はまんま送れると言っても過言ではない。でもみんな、それができなくて苦労している。Disciplineに対するこだわりが弱すぎるのだと思う。

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2、人生はなんだかんだと結果が全てである、ということを痛感できる。

ハーフマラソンを完走できないということは、ある程度走っているランナーからすると確率は少ない。ハーフマラソンは、タイムにこだわるものであって、完走の是非が話題にあがる類のレースではない。フルマラソンも同様。まぁハーフよりは何倍もツライけど、完走できないなんてことはあまりない。

しかし、100kmを超えるようなレースになると、完走がおぼつかなくなる。過去出場した超ウルトラの戦績は、今の所4勝4敗。何万も払って遠方まで行って死ぬほどツライ思いをして、そしてリタイヤして何も残らない。これほど寂しいことはないし、仲間のゴールを喜びたい気持ちはあれど、一抹の虚しさが必ず残る。

やり遂げたことよりも、やったことに価値がある。結果よりもプロセスが大事だ。こんな言葉は掃いて捨てるほど聞くけれど、それは結果を出した人間が吐くべき言葉であって、あるいは結果を出した人間が言うから格好良く聞こえるのであって、やはり世の中はなんだかんだといって結果が全てである。

結果を出すために、法に反したり、人の足を引っ張ったりと、何をしてもいいかというと、もちろんそんなことは全くない。そんなことは全くないが、でもやはりルールの中で戦った上で、結果が全てであるという事実は変わらない。超ウルトラを完走したとき、また今回のようにリタイヤしたとき、それを痛いほど感じる。

プロセスが大事だ、なんてのは結果を出せない者の免罪符、セーフティネットみたいなものであり、自分がそれに甘んじるつもりなのであれば良いけれど、やはり自分が生きるプロの世界においては、結果を出したい。

プロフェッショナルでもなんでもないランニングの世界でも、そういう気概を醸成する必要はあると思っていて、それが超ウルトラではめちゃくちゃ鍛えられる。だから僕は走っている。

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3、実力がないと、「家族のため」とか考えても、力は湧いてこない。

2014年に野辺山ウルトラ、その2週間後に柴又ウルトラを完走して、僕は「ダブルウルトラマン」になった。

この時の僕は、暑さや関門に追い詰められまくるなかでふと家族のことを考え、1号機を抱っこしながらのゴールシーンを想像したりして、空っぽになったカラダに最後の小型エネルギータンクを積ませてもらった。そして、おかげさまでものの見事に完走することができた。

んが、今回はいくら1号機の笑顔を想像しても、2号機のすぐ泣く泣き顔を想像しても、大蔵大臣の夜叉顔を想像しても、暑さと距離にやられたカラダは一向に回復せず、力が湧いてくることもなかった。

原因ははっきりしている。実力不足。

この4文字以上でも以下でもない自分が、レース完走の当落線上にすらいないのは100km付近で明らかとなり、そこから先はいくら彼女らの顔を想像しても、ダメだった。

家族に力をもらえた以前と、力をもらえなかった今回と、何が違うかといえば、実力だ。当時はフルマラソン4時間切りが当たり前のように出せていた時代で、そして今は4時間半がやっとだ。今期のロングレースも、もう3つもリタイヤしている。

 

つまり、こういうことだ。

ある程度実力がある人間は、激しい戦いを経た終盤の勝負所に、家族とか運とか想いとか志とか、そういうものを自分の背中に上乗せすることにすることによって、最後の一押しの力を得る。

2014年の僕がそうだったし、考えてみれば受験にしろスポーツにしろ仕事にしろ、人生で大逆転を決めてきたときはいつもそうだった。

が、その基本的な実力すらない状態のままで、家族だ運だ想いだ感謝だと吠えたところでプラスアルファの力が湧き出るなんて奇跡に頼る資格はない。その前にやることがたくさんあるだろうて話だ。草野球程度の練習しかしてない人間が、どれだけ家族に想いを馳せたところで、プロの試合でヒットを打つことはまかりならない。

1ミリも家族から力をもらえなかった、もっと言えばその資格すらないことが判明した今回のレースは、そういう意味で非常に厳しいものだった。そういえば、プロセールスの世界には、家族が出来て責任感が増したおかげか、売れるようになった人間もそれなりにいたが、結婚してようが子供ができようが、一向に冴えない人たちもまたたくさんいた。

その物事に取り組むための基本的な力を備えていない人間にとって、家族という存在は、力どころか言い訳のタネにしかならないというのはそれなり以上に残酷な話。でも事実。

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4、「限界を超える」のは練習でやっておけ。本番でやるな。

漫画的には、本番で限界を超えて新たな境地に達する、なんてのは、もはやヒット作のお約束の展開であるように思える。

孫悟空は親友のクリリンを殺されたことで超サイヤ人になったし、浦飯幽助も親友の桑原を殺された(ように見せかけただけなんだけどほんとは生きてた)ことによって、100%の戸愚呂弟を倒す力を得るに至った。

んが、超ウルトラのレースに出て思う。限界は練習で超えておけ。

なぜかというと、超ウルトラのレースにおいては、今回のようにリタイヤしたとしても、誰も助けてくれない。回収バスもないし、最寄り駅は歩いて3時間も向こうで、出る電車は4時間後、てな感じ。オール自己責任。

仮に限界を超えて全てを出しつくして、それでリタイヤしたら、道端で干からびて死ぬしかない。夜中に力尽きたら数時間は車が通らないし、昼間に力尽きても自販機もコンビニも数十kmない。そんなの、誰にとっても超迷惑だ。

 

だから我々参加者は、本番においては全力で走りつつも、どこかで余力を残しておかねばならない。

この塩梅が難しく、今回の僕はリタイヤしたわけ。全力で限界を超えるのが美しいからといって、そればかりやっているようではダメ。かといって全力を出せないとゴールまでたどり着かないのも事実で、こればっかりはそのバランスを経験で培っていくしかない。

経営に置き換えればわかりやすいが、社員全員が100%全ての力をふり絞らないといけないような目標を経営者が年度始めに立てているようでは、難しいと思う。もちろん、気持ちの上では100%全力で、というのは当たり前の心構えだとは思うけども。

が、現実には◯◯さんが妊娠したとか、主力だった◯◯君が転職してしまったとか、◯◯銀行の融資が急に細りだしたとか、雨あられのようにトラブルは起きるもの。ワークライフバランスも必要だし、働き方改革も必要だろう。

そうなると、極端な話、どこかに少しの余力、少しの余白、少しバッファのを残した状態での全力、限界突破を志向できるようじゃないと、目標達成はおぼつかない。

アキレス腱がいつ切れるかわからない走り方、働き方、生き方ではダメなのだ。人生では、想像以上に想像していなかったことが起こる。

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5、人生は喜びと苦しみが「大なりイコール」じゃなくてもいい。

今よりもそれなりに若いとき、僕は人生における喜びと苦しみの比重に関して、「喜び≧苦しみ」な関係を求めていた。大なりイコール的な。

人生の喜びの量は、苦しみの量以上であってほしい。せめて同じぐらい程度、でもできれば喜びの方が多い方がいい。そんな感じで考えていた。

ただ、人生を生きていると、そうもいかない局面が多いということに気づかされる。おいおい、このままいくと、苦しみ過多になっちゃうよ。そう思ったことは、数度、というレベルではきかない。俺の人生、割にあわねーじゃねーか、なんてやさぐれてたこともある。

 

が、超ウルトラを何度も何度も走っていると、自分が求めていたはずのこの「喜び≧苦しみ」という式が、必ずしも満たされずとも幸せに生きることができるのじゃないかと思うようになってきた。

超ウルトラは、基本的には苦しみが超絶バランス悪く超過する。99.9km辛くて、ゴールの瞬間だけ報われる、という感じ。もし定量的に測った式にするならば、

喜び苦しみ

である。圧倒的に苦しみ過多。

がしかし、多くの完走者が知っている通り、ゴールで全てが報われる。それまでの苦しみ全てが報われる瞬間、それが味わいたくて、また懲りずにあの地獄の苦しみを味わいに各地にいく。

 

人生というのは十人十色、千人千色、億人億色である。からして、神様がよほどデキた共産主義者じゃなければ、各自の人生はそれなり以上にバラついた状態で付与されるのだろうし、完全に公平に平等に、といったふうには設計されていないと思われる。

人によっては、客観的にあるいは定量的に見れば、苦しみ過多な人生となる人もそれなり以上の数、いるだろう。

だとしても、超ウルトラを走るときの気持ちでいれば、必ずしも人生に「大なりイコール」を求めずとも済むし、与えられた配牌に対する愚痴や恨みつらみを言わずとも明るく楽しく生きることができるんじゃないか。なんてことを思っている。

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6、感謝力を鍛えるなら、超ウルトラを走ろう。

国が満たされれば満たされるほど、国民の幼児性は高まり、民度は下がる。ある人が言っていた言葉だけれど、本当にそうだと思う。平たくいうと、国が豊かになると、バカが増える。

特に都会にそういう人間が跋扈するような気がしていて、こないだはカフェで隣にいたヒマダムたちが、「スーパーが徒歩5分もかかって遠すぎて話にならない。消費者のことを全く考えていない。」という会話をしているのを聞いたときにはぞっとした。どんだけ自分が世界の中心なんだ。便利さに慣れすぎである。

今の日本人が持っているほとんどの生活インフラを、世界のほとんどの人たちは持っていない。飲んでも全然平気な水道水、いまだに世界トップレベルの治安、便利すぎるコンビニ、時間通りに発車するのが当たり前な鉄道、臭いけどまともなタクシー、ちゃんと届く宅急便。

そういったものが整えば整うほど、不思議なことに人間はそれらを当たり前のものとして捉えはじめ、いつしか感謝すらしなくなる。都会の日本人は、世界でトップレベルに感謝を忘れた人たちなのじゃないかとすら思う。で、感謝がないから幸せにもなれない。些細なことへの感謝を失った日本人の幸福度は、先進国中最下位に近い。たしかパキスタンだかバングラデシュだかにも負けてた気がする。

 

超ウルトラを走ると、色々な事に、ほんとうに些細なことにも感謝するようになる。くそ暑いなか、ふとした瞬間に吹いてくれた風。一瞬ではあったけれども、マジでありがたい。日が高くなっても木陰を走ると、木々に対する感謝が湧いてくる。水の神的な美味さは、あの暑さをカラダの底から味わっていないと、わからない。

ジェルの甘さでカピカピになった口に入ってくる、あの何気なさすぎるそうめんの貫通力たるや、言葉にできないぐらいだし、わずか数百人のランナーのために暑いなか1日中エイドで色々仕込んでくれているおばちゃんたちの笑顔や声援は、涙が出てくる。

そういえば俺、五体満足だったよね、走れてるよね、なんて当たり前の、しかし実は奇跡的なことにもありがたいと思える瞬間が多々あるし、誰かが待っていてくれること、苦しいときにともに戦ってくれる強敵(とも)の存在、全てがありがたい。

家から徒歩3分以内にコンビニがなくても、高級フレンチや焼肉が食べられなくても、世の中を動かすような仕事をしているわけじゃなくても、ふとした何気ないことで幸せになれるし、感謝感激雨嵐な気持ちになる。

今の日本人、特に都会人には、感謝が足りない、感謝力が低すぎると感じている。憲法に超ウルトラを義務したらいいんじゃないかと思うんだが。

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7、超ウルトラマラソンを走る理由は、いち人間としての健康診断。

僕たちは、年に1回健康診断を受ける。37才にもなると、くそ不味いバリウムを飲まされて、台の上をガラガラポンされて吐きそうになる。カラダの悪いところ、弱いところが部位ごとに発表され、「気をつけなはれ」というレベルから、「今すぐ病院で治療しーや!」というレベルまで、各部門ごとに成績がつく。

が、そうやって分かるのは「カラダの健康状態」であって、僕のメンタルや思考は反映されない。あくまで、「お前のカラダはこんなやで」という現況を教えてくれるのみ。ヒトとしてどうか、お前という存在はどうか、という結果の仕方は、当然のことながらしてくれない。

健康診断はすべきだ。しかし片手落ちな気がする。僕は常々そう思っており、カラダもココロも含めたいち人間としての健康診断をできるのが、超ウルトラへの参戦だと思っている。

 

胃に穴が空いてるとか、白血球が多いとか、そういうことが走っていて分かるわけではない。しかし、一人の人間としての成績表は、これ以上ないぐらい残酷なまでに叩きつけられる。

ちょっと暑いぐらい(といっても相当暑い)で完走できない言い訳リストに新たな文言を付け加えようとする安易な思考、続けると決めたことを直後に翻す薄弱な意思、戦いの場に準備不足で現れる傲慢さ、与えられた課題を乗り越えられないことが明らかな貧弱フィジカル、準備期間を規律によってコントロールできない継続力の弱さ、平素の乱れた生活習慣。

これらが一気に顕在的な弱点として目の前に現れ、ありとあらゆる方向からレースを邪魔してくる。その一つ一つと向き合い、いくつかには押しつぶされながら、自己省察をこれでもかと繰り返しながら、自らの限界点を探っていく。

超ウルトラは、常に「今」が問われる。「過去の実績」は通用しない。どれだけ過去にマラソンを走ってようがトライアスロンに出ていようが、3ヶ月もサボればごく普通の人に成り下がる。半年サボれば戻ることすら容易ではない。今、お前はどうなんだ。今、お前は力を出しつくしているのか。今、お前はお前が満足できる自分なのか。

そういうことがこの健康診断では問われる。そして、オールAをもらえることなどほとんどない。だからいつまでもいつまでも、この度は続くのだろうと思う。

***

てなことを北斗剛掌派的に考えながら走っていると、限界に挑戦する分、リタイヤが増える。今年はビッグレースで1勝4敗と完全な負け越しになった。怪我もしたし、なんなら手術も必要とのこと。出場すら叶わない試合もあった。

そうやって人生がことごとく思い通りにいかないものであるということを認識できるし、普段の規律に幸運も味方してかろうじて状況をコントロールできたときにはえも言えぬ達成感を味わうことができるから、僕はいつまで経ってもこの快楽とはほど遠い競技から足を洗えないのだろうと思う。

てな話。おしまし。

写真は188kmのレースの100km地点で精も根も尽き果てて眠ってるところ。日常生活でこんなになることはまずなく、だからこそこれだけ頑張れた自分をたまには褒めたくもなる。

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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

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