「成長学」という学問があるわけではないけれど、能力的にUp or Out的(成長か、さすらば死か)なフルコミッションの業界に十数年も生きていると、否応無しに成長する人としない人の違いみたいなものに、敏感になってくる。
はっきり言えば、成長する人はそういう思考回路を持っているがゆえに、どこまでも成長していき、そうではない人はそうではない、つまり結局はどこかで退出を迫られるのが、生命保険という業界の悲しいカルマ。
自分が前者に当てはまることができれば、引き続き生き残ることができるし、後者になってしまえば、後はない。
おかげで、8割ぐらいの確率で、「あ、こいつは伸びてくるな」とか、「コイツはここ変わらないならダメだたぶん」みたいなのは分かるようになってきた。多くの業界を知ってるわけではないが、たぶん、他の業界にも通底する要素はあるはず。
 
なお不思議なことに、というか世の中の常的に、若い時は成長する人であっても、歳とともに成長しない人間にもなったりする。というかそれが普通。9年間成長する人枠に入ってても、次の1年で成長しない人枠に入れば、そこで終了という世界である。
今までそういう人を何人も見てきた。若い頃に伝説を作り、歳を取って違う意味で伝説となった人(伝説の営業マンから伝説の遊び人へ)。「あの人、昔はすごかったんだよ」と言われるに値するぐらい、現在は生気を失っている人。以前は素晴らしいビジネスマンだったのに、現在は素晴らしくない政治家もどきになってしまった人。
今回はこういう人たちに関しては言及しない。あくまで、社会人歴的な新人、業界歴的な新人、あるいは低〜中挙績に長年止まっている人たちのうち、今後も成長見込みの少ない人の特徴について言及していく。
 

 第一声が「いや、でも」

「コイツは間違いなく伸びない」と断言できる人の特徴として、「いや、でも」という口癖が挙げられる。
 
「ここはこうした方が良いと思うよ。」に対して「いや、でも」
「これは明らかにお客さんのためにならないから、こう変えて?」に対して「いや、でも」
「ミスをしたのはしょうがないけど、それってもっと上流のここが問題なんじゃない?」に対しても「いや、でも」
もちろん、それなりの実力があって自分の意見を持つことは悪いことではない。むしろ、ある年齢になったら、自分とは何者なのか、何を為すために生きているのか、が明確になってないとヤバイ。
人の言うことを一生聞いとけという意味では、もちろんない。
 
しかし、(その業界で実績を挙げるための)実力もないのに「いや、でも」が口癖の人がいる。
新人でその業界のいろはを学ぶ前に「いや、でも」を口にする人がいる。変わりたい/変わらねばならないタイミングなのに、過去のプライドが顔を出して「いや、でも」という人がいる。
こういう人間は絶対に伸びない。これは断言できる。ホリエモンやちきりんが「自分の頭で考えろ、慣習に囚われるな」と言っているのを真に受ける資格があるのは、自分の頭で考える実力を持った人だけである。
 
言い分はこうである。
「自分の中で納得してから動きたいんです。」
なるほどなるほど、分かる分かる。納得、大事ね。納得しないと気合い入らないもんね。
そして、この考え方が、実はもっとも成長から遠い。そのことを論理的に立証し、納得させてやらねばといつも思う。(繰り返しますが、成長が是という人の場合。普通の会社では成長は是と思いますが。)

 「納得」はいつ訪れるのか?

納得は、「それ」が完璧に、もしくは近いぐらいにできるようになったら訪れるものである。
例えば、早起きの効能は、1回や2回早起きをしたぐらいじゃ分からない。1ヶ月も2ヶ月も早起きが続き、明らかに生活のリズムが変わり、関わる家族の時間の使い方も変わり、仕事の考え方も変わり、パフォーマンスも変わり計測可能なアウトプットも変わって初めて、
「早起きってスゲー!」
と心から分かるようになる。事ここに至るまで、つまり早起きが習慣化されるまで、早起きに対する真の納得は得られない。
 
そこに至るまでには早起きしたことによる揺り戻しも起きるし、それを乗り越えるのにまた労力がかかるし、いきなり早起きをしたことで一瞬家族との軋轢も生まれたりするし、「お前どうしたの?」みたいな人が邪魔してきたりする。
つまり、納得するのには、その前に多大なる試行錯誤が必要となる。しかし「納得しないと動けない」という人は、まずもってここに至らない。DoしないからUnderstandもない。PDCAも回らないから、いつまでも下手なままである。
これは仕事はもちろん、ランニングや筋トレなど、最近良しとされる生活習慣を取り入れる際にも当てはまる。「カラダを鍛えた方が良いよ」と言っても、「?」という顔をしている人がいたら、納得しないと動かない人な可能性は高い。

 子どもたちはなぜ成長するのか?

「困った時は子どもたちを見習え!」というのが僕の中でこの数年のブーム。子どもたちをよくよく観察していると、悩んだり考えたりしているほとんどの問題に対して、答えとなるインサイトを見せつけてくれる。
今回の件に関しても同じ。子どもたちを観察していると、納得を基盤として意思決定していることはほとんどない。というのも、親や先生がうるさいからである。
子どもたちは、本音を言えば勉強なんかしたくないし、遊んでいたい。9時になんて寝ないで、ずっと起きていたい。それをぴしゃりとぐうの音も出ないほど絞り上げ、いわゆる「ちゃんとした子ども」に仕立て上げるのが、親であり先生の役目となっている。
 
子どもたちは、1ミリも納得せずにひらがなカタカナ漢字に着手する。やれと言われたからやる。
「識字率」というものがどういうものか、字が読み書きできることがどれぐらい大事なことなのか。そういったものは、大人になってから知る。納得度ゼロパーセントで、十数年間教育を受けていることになる。
 
四則演算も同様で、僕自身、九九はやれと言われたからやっていた。
大人になって、一桁の掛け算が出来ない国の人がいるのだと知った。(逆に、二桁の九九ができるインド人なるスーパーマンたちがいることも知った)当時の納得度?んなもん全くない。
 
受験もそう。30代も半ばを超えて、今更ながらに親が施してくれた教育のありがたみを感じている。
学問的な知識もそうだけれど、アホな自分が、それでも煽り運転の常習者や、子どもにファーストフードばかりを食べさせる親にならなかったのは、ひとえに教育のおかげである。でも当時は、「クソババァ!」とか反抗して泣きながら勉強していた。
ごめんなさい。

 大人は子どもを見習え!

子どもが成長するのは、納得を一義と考えていないからである。
納得しないと動かない子どもなんて、見たことがない。みんな、「なんでこんなことするんだろ?」、「パパとママが言うから」と思いながらやっている。
そして、いつのまにか「それ」が出来るようになり、さらに数年後から十数年後、場合によっては数十年後に、その意味に納得する。
 
一方、成長しない大人がいるのは、自分の中での納得を最優先に考えるからである。納得しないからやらない。やらないから出来るようにならない。出来るようにならないから納得しない。永遠のループ。
出来るようになったらその意味が分かるものを、出来る前から理解することが可能なら、それは天才というものであり、だいたいそういう人は皆さんの近くにはいない。Googleとか、Facebookとか、いるとしたらそういう遠いところにいる。
 
瞬間的に思い浮かぶだけで数人頭に顔がよぎるのが、この「納得」を基盤として動く人たち。
自分がそうならないことを常に気をつける必要はありながら、まがりなりにも「納得狂」にならずにいられるのは、常に納得からもっとも遠いところで歯磨きやねんねや勉強を強いられている我が子たちを見ているからだと思う。
珍獣たちに感謝!そういえば今日も奴らは吼えていた。
***

世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。
退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!
我が生涯に一片の悔いなし!!!
Twitter: @raoukeita
メルマガ希望:kusog.akaba(アットマーク)gmail.comまで。組織の人財育成について書いてます。
いずれも申請の際は、世紀末覇者として最低限の自己紹介と愛のある一言をお願いします。
欲しいものリストはこちらです。万が一くれる人いたら泣いて喜びます。http://amzn.asia/7ZSHn0D

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事