ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

都営バスを止めた乗客にモヤモヤした話 #1442

time 2018/12/27


 

世の中のあらゆる事象は玉虫色であり、上と下、右と左、白と黒、正義と悪と二項対立で簡単に括れるものではないことは分かっている。

それでも、普段はこれらの玉虫色の事象に自分なりの解釈を加えて、極力ポジションを取るようにしている。「色々な立場、考えがあるよね」と口で言うのは簡単でも、それはそれとして自分のポジションを取らねば人生そのものを前進させることは難しいと思うからだ。

僕が取っているポジションだと、

・筋トレは最強に近いソリューションである。

・社員にマラソンをさせると会社が強くなる。

・凹むのは良いが、周囲に撒き散らすメンヘラは迷惑。

・色白で細い男は世紀末で生きていけないからダメ。

・高齢者には気持ちで感謝しつつ、カネは子供に振り向けるべき。

・小さい子供がいるのに喫煙してる親はアホ。

・学歴至上主義ではないが、学校歴は学習歴とそれなり以上に相関するので、やっぱり大事。

というものがある。全てに異なる意見、反対の見方があるのは承知しているが、それでも僕がこのポジションを取ることは変わらない。

んが、つい先日、どうにも自分のポジションを取れない事案に遭遇したので、ちと皆さんの意見を聞いてみたい。皆さんだったら、どう思うだろうか。珍しく全く自分なりの結論がない話。

誰も悪くないのに、なんかもやもやする。そんな類の話である。

***

バスを止める客

ある日都営バスに乗っていたら、とある停留所でバスが動かなくなった。

どうしたんだろと思って前を見たら、運転手さんと乗車前の客(女性)が何かやりとりをしていた。どうやら女性は、バスの位置を動かして自分に近づけろと言っているようだった。それに対して無理だ無理だと反論する運転手さん。

 

どちらかがすぐに折れるだろうと思っていたら、結構ヒートアップ気味。

女性は「いつも乗ってるバスだからもう少しこっち側に動かせるはず!じゃないと乗れない!」と後ろの席まで聞こえる声で叫んでいる。ズラせと言っているのはあと1mやそこらだから、確かに動かそうと思えば動かせたのかもしれない。

しかし運転手さんが反論する。「前と後ろに車がいるから動かせません。そこから乗ってください」と。

確かに結構近い距離に車がいて、もう少し縁石に近づけるには前に進んでハンドルを切って、後進してハンドルを切って、という作業が必要そうだった。出発のときも同じ手間がかかることを考えると、難しかったのかもしれない。

僕からすると大したことない話で、1mバスを移動させるか、あと一歩踏み出してバスに乗るかという話のようだった。

見た感じ、バスを移動させるのは無理そうだから、あと一歩踏み出してバスに乗る方が話が早そうだったが、気づくと30秒以上は戦っている。何がそんなに問題なんだ。。。

 

結局運転手さんが折れることはなく(たぶん本当に動かせなかった)、女性が「あーもう運転手さんは身障者に冷たいなぁ!」と叫びながら乗車してきた。

もしや助くるべきを助けない不実を運転手さんが働いたのか?と一瞬思ったけれど、最近の都営バスは地下鉄同様しっかりしていて、明らかな身体障害者の方にはバスの発進を遅らせてでも乗り込みサポートをしている。ということは、そこまでではないのかもしれない。

乗ってきたのは、両手に松葉杖のようなもの(下腿不随の方が使う肘で固定して歩くやつ、名前がわからないので松葉杖とする)を装着した妙齢の女性だった。

車椅子ではないから歩けないわけではなく、しかし健常者と比較すると明らかに足の機能に不自由を抱えている感じ。

ただ、器具のサポートもあり、わりとスタスタと歩いていたのは事実である。また、「皆さんこの運転手ひどくない!?」といった感じで大きな声を出しながら乗車してきたのもまた事実だった。

 

僕はその姿を見た瞬間、うーん、と唸ってしまった。この感覚はあれだ。答えが見つからないときに、ポジションがはっきり取れないときに陥る感覚だ。

降りるときは結構スタスタ降りていったので、これまたうーん、と唸ってしまった。

***

第一感で思ったこと

その場で思ったこと、感じたことを正直に言うならば、正しいのは運転手さんであるように思えた。

重複になるけれど、1mほどの距離を縁石側に寄せるのに、進んで戻ってを数回繰り返さないと無理そうだったし、それをすれば前後の車とぶつかる可能性があった。客観的に考えて、運転手さんには譲る理由はなさそうだった。

 

かつ、件の女性にはかなりの不快感を感じてしまった。本当に正直に言うけれど、これが僕の第一感だった。

いつもは確かにもう1mほど縁石側にバスが来ていたのかもしれないし、やりようによってはあと1mならなんとかなったのかもしれない。

でも、それをやることで、あと2分停留所に止まることになった可能性は高いし、何より「あと一歩なら出せただろ」と思わんばかりのスムーズな歩き方をしていた。(松葉杖ではあったけれど)そして、僕は根本的に大声を出す人間が男女ともに嫌いである。

以上の理由から、正直に言って女性の側に不快感を感じてしまった。

ちなみに、今回の件では運転手さん側に不義はなかったと思うけれど、普段高齢者が席につく前に発車するあの配慮のなさは、今すぐ改善してもらいたい。危ないよ。

***

世界の見え方が彼我で異なる可能性

これを以ってツイッターに載せるほど反応的な生き方をしているわけではないが、何度も言ってる通り客観的に状況を判断する限り、一定の不快感を感じてしまったのは事実である。

公共サービスを自分だけのために止めるというその行為にしても、奇声に近い言動にしても、僕の中ではありえない。

ただ、うーん、となったのは、そこに主観の視点が欠けていることに気づいたからである。いわゆる「相手の立場」である。

 

例えば、両足が自由に使える僕では想像もつかない不便が、彼女にはあった可能性がある。普段はスタスタ歩けるが、ある段差だけはどうにも足が動かない、あるいは強烈な痛みが走る。そんな事情があったのかもしれない。

そうであれば、確かに1mバスが離れていることによって、段差を降りる、段差を登るというふた手間が発生し、それが女性にはかなりきつい動作であった可能性がある。

また大声を出すのも、そうでもしなければ一切対応しない健常者社会に対する、女性なりの戦い方であった可能性もある。バリアフリーは都市中心部を別とすれば遅々として進まず、理解もあまりなく、忖度は戦って得るしかないとの教訓を、女性は人生を通じて得ていたのかもしれない。

 

僕自身、身体障害者という認定は受けているわけではない。それでも、このシチュエーションのこの条件が整ったときは勘弁してくれという事象を実は抱えており、その場合、多分それなり以上に一般社会に不適合な振る舞いをしていると思う。

普段は大人であること、「常識」を守ることを心がけているけれど、ある条件が整った場合は自分を何に代えても最優先する。たぶん、相当人に迷惑をかけている。

件の女性があの日あの瞬間にそういう状況になかったと、どうして言えるだろうか。

***

考えるべきは、手持ちの札の数

普段、一応の健常者として生きる僕は、弱肉強食とも言うべき世界に生きている。

その世界に生きているからには、甲子園に出たかったら死ぬほど努力しろ、国立に行きたかったら死ぬほど走れ、の強論で良いと思う。

ヒト・モノ・カネが一定以上揃う家に育ったのであれば、あとは目標次第で平素からかける負荷が変わる。努力をすればしただけの結果が、しなければしないなりの結果がついてくる。それは完全に自己責任だと思う。

 

しかし、甲子園に出たいのにバットを買うお金すらない家に育った人、国立に行きたいのに足が動かない人がいたら、その人たちに対する僕の思考は、途端に具体性を失う。

平たく言うと、何も言ってはいけない気になってくる。自己責任という言葉は便利だが、その言葉には前提が必要なことに気づく。自己責任を果たせる環境に生きてきたかどうか、だ。

 

たとえば、親がDQNだと、それだけで自己肯定感と学力に強烈なまでに蓋をされた子が高い確率で出来上がる。その子に「やればできる!」と伝えるのは、時には毒になってしまう。

身体障害者の方にしても、努力ではどうにもならない機能不全がある。それを、「目指せば叶う」とは言いづらい。少なくとも、自分に意見する資格はないように思う。

 

今回感じたのは、両者には埋まらない溝があるということだった。どちらも、互いを真には理解できない。今回は健常者と身体障害者の文化の違いが発端だったけれど、これは社会のどの場面にも起こりうる話だと思う。

同じではないから、理解ができない。理解ができないから、歩み寄ることも難しい。ならば、違うなら違うということで、跳ね除けて良い問題なのか。それもなんか違う気がする。

とりあえず社会全体としては、社会保障という形で権利の標準化を目指しているが、画一化されたサービスで全てが網羅できるわけもなく、最後は一人一人の普段の振る舞いの問題になってくる。

 

結局、考えるべきは、手持ちの札の数ではなかろうかという結論に落ち着いた。何も考えないでも持てている選択肢がどれだけあるかということだ。

例えば僕は、膝を曲げることも、伸ばすことも、歩くことも走ることもジャンプすることもできる。しかしおそらく、件の女性は膝を曲げることと走ること、ジャンプすることは無理だろうと思う。

限りない選択肢を持つ側と、限られた選択肢しか持たない側。ここには万里の隔たりがある。ならば、手持ちの札の多い側が、歩み寄る、または理解を示す。もしくはより多くの何かを負担する。これがしかるべき姿なのかなとちょっと思った。

 

すでにいくつかの機能は、先に述べた通り、社会保障が担ってくれている。しかしラストワンマイルの部分は、どうしても僕たち一人一人に依存する。

敵だと思えば敵になるし、包み込もう、受け入れようと思えばそうなる。僕たち次第。

今回難しかったのは、また感情を揺さぶったのは、一見して明らかに自分としては受け入れられないタイプの女性が絡む出来事だったからである。これは大事な話なので敢えて書いておこうと思う。

これが、物静かなタイプの身体障害者の方と、都営バスの職員の戦いであったならば、僕の中では簡単に結論が出せた話だった。

個人感情としてどうかは別として、僕たちにはやらなければいけないことがある、というのが、今回考えたことだった。

 

身体障害者の夫を抱える、とあるご夫人が、

「喧嘩はします。他人だからめちゃくちゃムカつくこともある。だけど、だからといって食事を与えないとか、介助をしないとかいったことは絶対にしません。やろうと思ってもできないことに対して罰を与えるのは、フェアではありません。」

といった主旨の話をしているエントリを昔読んだけれど、まさにこういうことなのだろうと思った。不快感を感じはする。しかし、それとこれとは別なのだと思うべし。

大人の階段って長くて急である。意見ある人はください。

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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。
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経営者、事業主としての話

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羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

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