めっちゃRichなR国


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『めっちゃRichなR国』
いつもお読みいただき本当にありがとうございます。一期一会に感謝します。
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本ブログは、8ケタを超える自己投資をしてきた羅王(ラオウではありません。似て非なる羅王です。)が、これまで学んできた知識、知恵、各業界のピークパフォーマー達からの教えを、備忘録兼ねて徒然なるままに記したものです。偏差値8を記録した高校時代から始まり、自らの秘孔を突いて隠された力を引き出し続けてきた我が軌跡が、迷える誰かの『一歩前へ』を応援することにつながればと心から願って、下記に今日のエントリをお送りします。我が人生に一片の悔いなし!
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今日は先日の『貴方の年収世界で何番目?』 http://kusogakaba.blog13.fc2.com/blog-entry-195.html に関して、少し仮定の国の仮定の話で思考を進めたいと思います。
上記エントリでご紹介したGlobal Rich Listで日本人の『下がり続けている平均年収』である409万円を入力すると、それはインドネシアの平均労働者の45年分に相当するというふうに算出されます。実際の生活レベルは物価との兼ね合いもあって、インドネシア人の45倍日本人が豊かなわけではありませんが、それでも相当な開きです。
ざっくり日本人の平均年収を400万として、仮にその45年分の年収を『平均的に1年で』稼げるような国があったとします。仮にRichなR国とします。R国の平均年収は1億8000万円です。平均でね。その国はとても豊かで、日本人がとても手の届かないような生活を毎日毎日しています。
例えば、R国の食事は、日本人が平均して一生に一回食べれるかどうかの『the 満漢全席』的なものが毎食出ます。専属のコックさんや給仕人の方がいて、もちろんハウスキーパーさんやベビーシッターさんもいます。車は平均的にベントレーかフェラーリかランボルギーニ。住んでいるのは居住人以外のスペースや駐車場も必要なので、全員ハリウッドスター並の家に平均的に住んでいます。イメージで言うとビルゲイツの家みたいなとこ。
日本は過去にはGDPが世界二位まで躍進したり、基本的な生活レベルでは名実ともにNo1と言われた時代がありましたが、残念ながらR国などの台頭により没落しました。食品類や衣類や主要ブランドの数々は、ほとんど全てがR国やその周辺先進国と呼ばれる国のもので占められ、昔栄華を極めた日本ブランドは、品質は未だ評価されているため、R国の富裕層などにまとめて『買い叩かれた上で』買い上げられています。日本が輸入しているのはジャンクなものばかりで、国民は長らく続く健康問題に悩まされていますが、もはや中毒と化しているため、それらを摂取することをやめることもできません。
平均月収が日本人の平均年収の3倍を軽く超えるため、彼らはどこからどう見ても日本人の経済感覚とは、そして日本人の人間的感覚とは異なる行動を取ります。風光明媚で世界的にも評価の高い日本への旅行は結構人気なのですが、あくまで’Kyoto’や’Roppongi’などの日本にあって日本にないような特殊な地域へのツアーであって、またそれらのツアーにおいては普通の日本人を全く目にすることなく旅行を愉しむことができるように設計されています。富裕層は日本に来たとしても、期待にそぐわぬ現実など見たくないからです。
さて、日本はバブルがはじけた後の失われた20年から始まり、長きに渡って続いてきた不況がいまだに続いています。少子高齢化には加速がつき、年金問題と教育費問題は相反する勢力に対する給付金という意味合いを持っており、一筋縄ではいきません。弱者をどの程度守るのかというセーフティネットの問題も、どの立場から物事を見るのかで全く違う回答案が出てきます。昔豊かだった時代を郷愁するあまり、今の報われぬ状況に嫌気が差し年間30000人を超える自殺者が出ており、これは相対的に豊かだった時代から通算しても世界トップレベルの数です。
高齢者の数はついに若者を超え、年金はその財源の宛てもないまま増額が繰り返され、その代わりに若年層の収入が著しく制限されるという状況に陥っています。子供の教育にお金をかけるためには、子供の数を一人にするしかありません。それどころか、それなりの生活をするためには、結婚しても子供は作らない、というDINKSが主要な選択肢となる世の中になっています。街中で子供を見かけることは少なくなりました。。
ところで、今日本が抱えている問題は、R国をはじめとする主要先進国の人が、『年間所得の2.4%』を拠出してくれれば全て解決します。様々な経済問題はもちろんのこと、それに付随する精神的なストレスの問題も解決し、なんとなく国を覆っていた閉塞感が晴れます。高度経済成長期のような、何かを目指せば何かが手に入る感覚が戻り、国全体に活気が生まれてきます。もちろんしばらくは主要先進国の力を借りる必要がありますが、それはあくまで『補助』であって『援助』ではありません。僕達日本人は、魚を与えてもらう必要はなく、魚の釣り方さえ教えてもらえれば、それを誰よりも効率的にこなすことができます。
『年間所得の2.4%』だけです。必要なのは。たかが2.4%という、大勢には影響を与えないであろう金額を分けてくれるだけで、どんなに自分の生活がラクになるだろうか、とおそらく一瞬程度はどの日本人も考えることと思います。たかが、です。
さて、R国なんて国はどこにもないのですが、Global Rich Listに比較対象として出てくるインドネシアや、中南米およびアフリカの多くの国々から見たら、日本はこんなふうに見えるということです。そして、その『たかが2.4%』という割合に相当するものさえ、おそらくはほとんどの人が誰のためにも使っていないものと思います。自分のために使っているかといえばそうでもなく、想像ですが、『なんにも考えていない間にいつの間にか使ってしまっているお金』なのではないでしょうか。
今、良い意味での『効率化』ということに関して、かなりの力を投じて勉強しています。そしてそれをある程度突き詰めていくと、結局はいかに『時間』と『お金』を効率よく使うかという命題に行き着きます。時間という資源は世界中の人が神様から均等に割り振られて生まれてくる一方、お金という資源は生まれや育ちやそれ以前の運命の偶然によって、著しく不均衡かつ不公平な状態で配分されます。
僕は、自分が恵まれている、という感覚を常に持っていたいと考えています。これは特に社会人になって様々なこと(特にツラいこと)を経験し、その度に強く感じるようになってきたことです。自分が何かの壁にぶつかった時は、とかく自分だけがこんな目に遭っていると思ってしまいがちですが、ほんの少しでも世界のどこかでもっと困っている人のことを考えられたとしたら、その乗り越えるべき壁の存在すらありがたく思えてくるのではないでしょうか。
今の日本は、不思議なほどの閉塞感に満たされています。こんなに恵まれた国であるにもかかわらず、です。それは、一人ひとりの個人的な世界観というか認識が引き起こしていることです。ゆえに一人ひとりの個人的な世界観や認識をほんの少しだけいじることによって、ほんの少しだけ角度を変えてあげることによって、日本は世界に類を見ないほどの素晴らしい国に生まれ変わることが可能です。そしてその素晴らしいがゆえの余力をもって、もっともっとそうではない状態の世界の国々に対して、いろいろなことを発信していくことができる、そういうふうに思えるのですが如何ですかね?僕はそう思っています。
とりあえず、そんなに大きなことでなくていいから、一人ひとりがもう少し他者に対して健全な興味を持てるような世の中になれば良いなと思っています。少し距離の遠い他者に対しても。
『たかが2.4%』で良いので。。
僕達にとっての『たかが2.4%』は、誰かの人生を根本から変える可能性があります。それって素晴らしいことじゃーないですか。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
我が人生に一片の悔いなし!

貴方の年収世界で何番目?


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『貴方の年収世界で何番目?』
いつもお読みいただき本当にありがとうございます。一期一会に感謝します。
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本ブログは、8ケタを超える自己投資をしてきた羅王(ラオウではありません。似て非なる羅王です。)が、これまで学んできた知識、知恵、各業界のピークパフォーマー達からの教えを、備忘録兼ねて徒然なるままに記したものです。偏差値8を記録した高校時代から始まり、自らの秘孔を突いて隠された力を引き出し続けてきた我が軌跡が、迷える誰かの『一歩前へ』を応援することにつながればと心から願って、下記に今日のエントリをお送りします。我が人生に一片の悔いなし!
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’Global Rich List’というのをご存知でしょうか?これは、自分が自分の国で得ている収入が、世界において大体どの程度のところに位置しているのかというのを瞬時に算出してくれるURLで、やってみると結構面白いです。
http://www.globalrichlist.com/
幾冊もの本がテーマにしている『年収300万円』の場合、以下のように算出されます。
・貴方の年収は『世界上位1.82%』です。
・貴方は(60億人中)約1.2億番目に高い収入です。
・貴方は1時間に1562円稼ぎます。ガーナの人は同じ時間で10円しか稼げないんですけどね・・
・貴方が稼ぐ年間300万というのは、インドネシアの平均的な労働者が33年かかって稼ぐお金なんです。
・喉渇いてますか?コーラを飲みますか?貴方なら3分間だけ働けばコーラを買えます。ジンバブエの人は1時間働いてやっとコーラです。
・あなたの月収で、(アフリカの貧困国で有名な)マラウィにおいては、153人のお医者さんの給料が払えます。
・貴方は世界の中でも極めて限られたお金持ちだということが分かりましたでしょうか?てなわけで寄付をお願い致します!
という感じで、ちくちくと如何に『貴方』が恵まれているかをロジカルに説かれます。
ちなみに下がり続けているというサラリーマンの平均年収=約409万円を入力するとなんと、
・貴方の年収は『世界上位0.79%』です。
・貴方は(60億人中)約5300万番目に高い収入です。
となります。5300万番目ですよ!60億人中の。日本の中で5300万番目ならまだ分かりますが、世界で5300万番目です。それって結構凄いことだと思いません?日本人の平均年収は、世界の上位1%に入るのですわ。
そう、日本はめちゃくちゃ恵まれている国なのです。戦争で全てを失い、バブル崩壊で20年を失い、活力がないとかスピードがないとか政治が腐っているとか色々言われていますが、日本はいつの間にか、世界中の人が羨むようなレベルの生活を手に入れているのです。ただ、周りを知らないからそう思えないだけ、知ろうとしないから、自らの過去の栄光時代(高度成長期とかバブル時代とか)と比べて、凹んでいるだけなのです。
僕は、ノブレス・オブリージュという言葉が大好きです。直訳すると、『高貴さは義務を強制する』とか、意訳すると『財力や権力の保持には責任が伴う』といった意味を持ちます。元々は貴族などの特権階級が果たすべき社会的な義務について説いた言葉ですが、僕はこれを少し自分の都合の良いように解釈しています。僕は高貴でも金持ちでもないので、むしろ、
『恵まれている国の恵まれている者の義務』
とでも言葉を置き換えた方がしっくりきます。つまり、僕達は『たまたま』日本に生まれてそれなりの環境で育って大学まで行かせてもらって無事会社勤めもして家庭も持って・・・と今があるわけですが、これってはっきり言って僕が高貴だったからなわけでも、血筋なわけでも、はたまた有能だったからでもなく、本当に本当に『たまたま』日本に生まれることができたことが発端です。つまり、『恵まれている』のです。だから義務がある、とは、短絡的かもしれませんが、上記のGlobal Rich Listによって算出されたような世界の姿が本当だとするならば、僕はその短絡さは同時に正義でもあると考えています。
『調子に乗っている時は上を見ろ、調子が悪い時は下を見ろ』と師匠によく言われます。表現そのものが正しいかどうかは分かりませんが、自分のメンタルのセルフコントロールをするにあたっては正しい言葉だと思います。世界には、自分が苦しんでいるのとは次元の違う苦しみ方をしている人が沢山いて、しかもそれは本人のせいだけではないケースがほとんどです。自分の選択の結果苦しんでいることが多い僕達が、というより、苦しむにあたって選択の余地が残されている僕達が、そうではない人達のために何かをするというのは、僕は個人的には権利ではなく義務の一つではないかと思うんですが皆さん如何でしょうか?
強制するものではありません、でも勧めたい考え方ではあります。『貧困の終焉』で有名なジェフリーサックスによれば、世界の先進国の人が年間所得のわずか2.4%を拠出すれば、世界の貧困問題は解決できるとのことです。これって凄いことだけど、すなわちとても悲しいことだと思います。だって、たかが2.4%を拠出していないから世界の貧困が未だに解決していないわけですから。
全ては意識の問題です。僕達の人生、色々ありますが、少なくともその『色々』がある時点で、相対的にですがかなり幸せなことなんだと知る必要があるのではないでしょうか。自分の自分のという時代から、誰かのためにという生き方が必要な時代に日本は来ているような気がしています。またその『誰かのために』が、日本の新たな時代の活力を生むことになるのではないか、そんなふうに考えています。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
我が人生に一片の悔いなし!

勇気ある撤退


ラオウへの道 あしたのために 今日の北斗剛掌波
『勇気ある撤退』
スズキ自動車の鈴木会長は、11月上旬にハワイを除く米国自動車市場からの撤退を発表しました。これは次の三点で非常に評価される、かどうかは後になってみなければ分かりませんが、物凄く勇気を要したという意味で尊敬に値する決断です。
1、米国自動車市場が堅調に回復する中での撤退の決断だったこと:ダメになる前の決断というのは、なかなかできません。
2、自身が社長に上り詰めるきっかけとなった米国スズキを潰す決断だったこと:自身が出身の事業部を潰せないで会社を追い込んでしまっている社長はゴマンといます。
3、インドでの実績があるとはいえ、ある程度数が見込める米国よりも、未来につながるが今のところ読めない新興国を選ぶ決断だったこと:リスクとは危険度ではなく振れ幅、と分かっていても・・
戦争や戦闘、ケンカでもそうですが、攻め込むことよりも撤退の方が難しいと言われています。軍対軍の戦いでは、しんがりが一番力量を問われます。結婚よりも離婚の方が大変だ、とは、よく言われている話です。経営も同様に、新規の市場に殴り込みをかけるよりも、そこで出た成果を冷静に分析して、未来がないと判断した瞬間に撤退をする、ということは、どれほど頭で分かっていても、とても難しい、勇気のいる決断だと思われます。
日常に置き換えても、こういった場面にはよく遭遇します。開けてしまったわりと大きめなお菓子を、食べ始めたが最後、ひとつ残らずダメだとわかっていて食べてしまった経験は、誰にでもあるでしょう。女の子の前だからと、無駄に大盛りを頼んでみたら、最後の方には食べることもイヤになってるのにやっぱり食べてしまって結局後悔している人もいるでしょう。つまらない本で、読み始めたがためにもったいないからと、最後まで読んでもやっぱりつまらなかった、時間を無駄にした、ということは、本を愛する私の場合、非常に多いです。着もしない服が延々と積み重なっていくタンスの中身の様には、恐怖を憶えます。
対策として、一時期私は『お菓子の損切り』をしていました。勇気ある撤退です。どういうことかというと、好きなお菓子を我慢するのはツライ。しかし食べるのは良くない。しかし好きなお菓子を我慢するのはツライ。しかし食べるのは良くない。。。でた結論は、『袋を開けて、好きなお菓子を思う存分最初の数口食べたら捨てる』というものでした。これは自分との対話で分かったことですが、最初は食べたさのあまり美味しく感じるのですが、そしてもちろん最後まで美味しく感じているのですが、その満足感には序盤と終盤で大きな開きがあることがわかりました。平たく言うと、序盤の私は喜んでますが、終盤の私は後悔が優っているのです。ということで、その喜びと後悔の損益分岐点がまだ益が優っている序盤において、泣く泣くお菓子を損切りし、捨てていました。泣く泣くではありましたが、これは私にとって革新的なソリューションとなりました。なにせ、好きなものを必ず食べられて、そして太らない、ということが両立できるのです!
結果、しばらくして気づいたのは、そもそもお菓子買わなければいいじゃん、という友人の無配慮な一言でした。
余談ですが、勇気ある撤退をぶちかました鈴木会長の最大の懸念は、自身の経営者としての撤退が全く出来ていないことです。それだけ撤退というのは難しいということです。すぐに諦める、というのではなく、『トライ&エラー』を『トライ&エラー&うまく行ったら継続&うまく行かなかったら撤退』に変えればいいのではないでしょうか。

The Dying Room


気合の入った取材をしているだろうことが容易に想像でき、考えさせられることも多いクーリエジャポンの特集で、
少し前に衝撃的な記事があったのでそれに関するエントリー。
平穏なスイスの片田舎に、日本では考えられないタイプの非営利団体がある。 その名はディグニタス、その機能は自殺幇助組織。1998年の創設以来、既に1000人以上を世「から」送りだしているという。 「顧客」のほとんどは、末期の患者や不治の進行性疾患に苦しんでいる病人だ。 病院のチューブにつながれて生きながらえさせられたうえに、無残な死に方をするのはごめんだ、と訴える人を助けることを目的としている。
ディグニタスにくればすぐに世から送り出してもらえるわけではなく、そこにはある一定の手続きがある。
・80スイスフラン(約7000円)の年会費を払ってディグニタスの会員になること
・必要なのは診療録のコピー、何故生きることが耐えられないのかを説明した手紙、1860ポンド(約25万円)をディグニタスに送る
・以上を以って医者が総合的に判断し、致死薬を処方するかどうかを決める。
・その後1860ポンドを更に払い、具体的な死の準備に入る。
上記の手続き経た上で処方された薬を、手配された施設で家族と最期のときを過ごした後に飲むと、全く苦痛を感じることなく、2〜3分で人生を卒業することになる。 そしてその模様をビデオに撮影し、警察に提出することで一連の流れが終了する。
スイスでは、安楽死は禁止されているが、自殺幇助は認められている。日本だと安楽死はギリギリ議論の当落線上、自殺幇助に至ってはもってのほか、というふうになりそうなものだが、その視点からするとスイスの法律は、言葉を選ばずに言えば非常にユニークだ。ただし、このユニークというのも、僕の理解では恐らく日本より人権に関する議論が一回りも二回りも進んだ国家ゆえのユニークさだと思う。
日本における基本的人権は、既にそのほとんどが全く意識することなく達成されてしまってはや数十年たつため、
「はて、基本的人権ってなんだっけ?」と思ってしまうぐらい、我々は基本的人権を保証されている。空気や水と一緒で、薄くなったりなくなったりした瞬間に、爆発的な憎悪を持って基本的人権の奪回は図られると思うが、そんな事態自体が今の日本で起こるとは考えづらい。
ともあれ、この記事に関して、もし日本における基本的人権がほとんど考慮していないものがあるとしたら、それは「きちんと死ぬ権利」だと思う。安楽死を尊厳ある死として、本人の意思とは関係なく家族のみの同意を根拠として渋々ながら認めた日本は、先送り体質が板に張り付いているわりにはよくやったと思う。しかしながら、よくよく考えてみれば、生きることはトラブルさえなければ80年余りあるはずで、その中で幾度となく挽回のチャンスがあるのに対し、死はほんとのほんとに一回きり、それがダメなら全て終わり、というぐらい、とにもかくにも(当たり前だけども)一回しかない。その一回を、今までの人生の総決算として、素晴らしく良い時にしたいと思う気持ちと、それを可能にする法整備というのは、本当はあってしかるべきではないだろうかと今回の記事を読んでいて感じた。
ちょっとおしゃれなウィークリーマンションにしか見えない部屋で、家族が座れるソファや、ヴィヴァルディオッフェンバックのCDもあり、近くには素晴らしいレストランや映画館、ハイキングコースまである。全く病人が過ごす部屋のようには見えない。
ただそこが少し異質なのは、「最期の時」を過ごす部屋だということだ。
勿論、読んだ瞬間に「倫理的にどーなんだ!!」という一次感情は沸いてきた、それは当たり前。しかしよくよく考えてみると、本当に人権というものを尊重する場合、それをサポートする側の(我々から見たときの奇妙な)善意だけに寄らず、彼らの経済的破綻を避け継続的なサービスを提供するためにも一定のフィーを徴収してこういったNPO事業を展開することは、全く不自然ではないように思える。それがとても不自然に思えるのは、こういった自殺幇助が日本ではまだ「有り得ない」事象であることと、もうひとつはそれをお金を取って行っているという点だと思う。
「人間の尊厳を守るためというのはまだ100歩譲って納得できないまでも許せる。だがそれでお金をとるとはなにごとだ!!」
という意見が、間違いなく出ると思う。日本はとかく、NPOや献身的ビジネス(介護士や児童保護施設の職員など、報償よりも明らかに重度の献身が上回るようなビジネスと勝手に定義)に厳しい。ここではNPOetc.の有り方や是非についてどうこういうつもりはないけれども、そういうものは基本的に善意でやれ、利益はあげるな、が基本スタンスになってしまっていると思う。しかしそれはサービスを提供する当事者からすれば極めて乱暴かつご無体な話だ。
日本の献身と欧米の献身には大きな開きがあって、欧米ではその提供者の生活を守るための適切なコストを徴収することは基本的に認められているし、そうしなければそのサービス自体が遠からず提供できなくなることも、当たり前だがみんなが理解している。だから利益を上げることも全く問題視されない。だが日本では、善意のみに頼って報いることをしないから、本当の善意のある人たちが費消されるだけ費消されて、ボロ雑巾のようになって去っていく。そういった善意ある人たちはスーパーマンのように強靭なわけでも、ナイチンゲールのように底なしの愛を持っているわけでもなく、いわゆる普通の人間で少しだけ他の人たちより愛に溢れているやっぱり普通の人間なのだということを、我々はどこかで忘れてしまっているのではないか、と思う。
話が逸れてしまった。
こういう問題を話すときに不可欠になってくるであろう価値観が、死生観。どう生き、どう「死ぬ」のか。自殺幇助組織の是非がどのような評価を受けるのかは歴史の判断を待つことにして、この死生観について、我々はどう考えるべきだろう。欧米ではDeath Educationなる、死に関する教育が既に始まっていると聞くが、日本でそんな気配はない。これは別に暗い話でもなんでもなくて、人間いつかは必ず死ぬのだから、その日に向けて、いつその日が来ても悔いがないように、1日1時間1分1秒を大切に、光輝かせながら生きていこう、そういう教育である。そんな話ならば是非義務教育のなかにでも組み込んでほしいくらいだけれども、恐らく日本でそういうことが議題に登ることはないと思う。
幕末から明治維新、終戦までは、何人たりともいつ死ぬかは、いつも手元にある極めて手ごたえのあるものだった。そういう意味で、特に特攻隊にこれから組み込まれる、確実に死が迫っているその立場にある若者の精神の成熟度はすさまじかったと言われている。しかしその後数十年たって、水と安全は無料、といわれるまでに平和になってしまい、医療水準も世界最高となってしまった日本で、死を意識することはほとんどない。どこかの誰かには関係ある話かもしれないけど、僕には、少なくともしばらくは関係ない、そういうものが死という言葉の持つ緊張感のなさだろう。この数十年で、「死」という一文字が持つ緊張感の偏差値が、ぐっと、ぐぐーっと下がってしまったようである。
どう生き、どう死ぬかを考えなくなった日本人が、なんとな〜くダラダラ生きているように見えるのは、このせいなのかもしれない。やらねばならないことを差し置いてどうでもいい誹謗中傷、政策でなく人間性批判を繰り返す、国のリーダーたち、資本主義社会だから仕方ないにしても、視聴率という麻薬に取り付かれ、とにかく意味のない批判をするために意味のない獲物探しをするメディア、それに乗せられて右往左往する暇な(僕も含めた)大衆。
もし明日死ぬかもしれない、もう来年は迎えられないかもしれない、だったら今を精一杯生きよう、そう思って全員が毎日生きていたら、少なくとも日本はもう少し良い国になるのではないだろうか。
「貴方の命はあと3週間です」

こう言われたら、残りの時間を誰と何をしてどう過ごすか、日曜の朝からパチンコ屋に並んでる暇な人でさえ、真剣に考えるだろう。 それが
「貴方の命はあと30年です」
こう言われた瞬間に、ハタとその思考が止まり、またいつもの通りダラダラと無目的に時間が過ぎるのを待つのはどういうわけだろう。
僕も痛いほど文字通り痛感しているが、人間というのは、わかっていても出来ないことがある。合理的と分かっていても割り切って行動できないことがある。それでも、この「死」というものに関しては、今まであまり考える機会がなかったゆえに、毎日少しでも、チラリとでも頭の隅に置いておくようにすれば、これまでとは違った人生を選択することができるのではないだろうか。
少なくとも今、家族を持ってかわいいかわいい娘を授かった僕は、死ぬことが何よりも恐ろしい。だから、少なくとも毎日をきちんと意識しながら生きることが、以前よりは出来ていると思う。
『パパ、パパ』と意味も分からず口ずさみ始めた娘が、『パパ、ちゅき』と言ってくれるまでは生きたい。いや、それだったらお父さん徒競走で一位になってから死にたい。いや、もう少し大きくなって、うっかり鼻ピアスの彼氏を連れてきたらボコボコにして追い返し、父の強さと偉大さを見せてからあの世へ旅立ちたい。いやいや、バージンロードで信頼できる後継者に託すまでは、でもそしたら孫を見るまでは・・・と、そうしたら、死を意識しつつも、長生きしないとな、と思う僕であった。