ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

これからの嫉妬の話をしよう

time 2014/01/22


僕たち人類は脳みそがデカイからか、本能以外に理性という武器を手にいれて今日の(賛否両論あるけど)栄華を手に入れたわけですが、その理性のおかげで文明が発展してきたのは人類200万年の歴史のうちの、たった1万年ぐらいと言われています。
 
ちなみに地球誕生の46億年前から今までを1年という時間に凝縮するとすると、1日が1300万年にあたります。1時間が53万年。人類の歴史は、200万年なのでせいぜい4時間ほどです。12月31日の大晦日午後8時ですね、人類が誕生したのは。さらに理性の賜物である文明が誕生したと考えられている1万年前というのは、地球の歴史から見れば23時59分頃に相当します。あらつい最近!
 
地球という生き物に比して僕たち人類という生き物の歴史はそれこそほんの1分程度なわけですが、それでも事実、医療が進歩した今でも100年程度しか生きられない僕たちからすれば、膨大な時間の流れの結果として、今があるわけです。
 
 

◆199/200は本能で生きてきた

理性を駆使して試行錯誤を積み重ねた文明が発達しはじめたのが1万年前と言いましたが、ではその前の199万年間は人類は何をしていたのか?よく分かりませんが、今よりずっとずっと、本能に従って判断する割合が高いなかで生きてきたのではないだろうかと僕は考えています。
 
それは、目の前に食べ物があれば腹いっぱいに食べようとする飢餓への備えの本能であったり、暗闇や未知を恐れる気持ちといった生存のための本能であったりするわけですが、どうやらこの199万年という歴史は伊達ではないらしく、理性も文明も発達したはずの今日の僕たちですら、未だに当時人類を生存、発展させるに至ったこの本能というヤツに振り回される機会がどうやら多いようです。
 
だいたいにおいて、何かが起きた時に、意に反してぐわーっと身体の中から湧き上がってきて、『イカンイカン!』と思い直して理性で押さえつけてるものって、ほぼほぼ本能だと思っていいのではないでしょうか。
 
それは食欲だったり、睡眠欲だったり、あるいは性欲だったりといった三大欲求の場合もあるし、もっと細かい単位での欲求の場合もあるわけですが、これはその人の人間が出来てる出来てないの問題ではありません。人類200万年の歴史のうち、199万年間は生きるための一義的選択基準として扱われた、『本能』なのです。
 
しかしながら問題は、その本能をそのまま野ざらしに発揮して生きるということが、この1億2000万人の人口を抱える日本という社会や、60億人を越える世界という社会では難しくなってきているという事実です。本能をうまくコントロールできない人間は、小さいところではいわゆる『KY』と言われたり、はたまた行くところまで行けば『犯罪者』になってしまいます。
 
本能を代表するアレもそのひとつです。そう、アレです。『アレを本能のままに』撒き散らせば猛毒となり得るし、『アレをオブラートのカプセルに包んで』上手に服用すれば、非常に上質のサプリメントとなるアレです。

そう、『嫉妬』です。

 
 
 

◆嫉妬は本能、でも使い方次第

嫉妬はもともと、狭いコミュニティの中で、自分がより多くの餌や異性を独占し、自分の子孫をより多く残すという本能を体現する感情のひとつとして、人類に備わっていました。自分より優れた存在がいれば、ソイツより自分が優れていることを証明するために蹴落としたり、踏み台にした方が、自分という種がより有利なポジションを築けます。だからそういう行動の起爆剤となる嫉妬という感情が芽生えることは、生物として自然なことでした。
 
199万年間はその嫉妬という感情が武力という手段をもって具現化されたり、言葉を覚えてからは『出る杭を打つ』的に言葉責めという手段にて実行されました。嫉妬は原始時代の名残であって、自分や一族が生き残るための感情としては必須とも言えるものでした。

 
嫉妬は当時、自分の生存と直結するものでした。
 
 
が、時が経って人口が増え、『群れ』ではなく『村』になり、『町』や『街』へ、そして『都市』へ変化するにつれ、嫉妬の持つ役割も変化するようになりました。群れであれば、嫉妬という名の本能を撒き散らすことによって、数分の一から数十分の一の確率で覇権を握ることができました。群れのボスになることができました。
 
今はどうか?嫉妬を発動して特定の誰かを引きずり下ろしたとしても、すぐにその能力に匹敵するよそものがやってきます。自分に力がなければ、永久にその場所にたどりつけない、そんな世の中になってしまったのです。出来の悪い(と思い込んでる)上司の悪口を言いまくって引きずり下ろしたとして、上司になる能力を持った別の誰かがその椅子に座るだけなのが関の山です。自分の能力を高めなければ、その出来が悪いと思っていた上司の座っていた椅子にすら、座ることはできないのです。
 
結論から言えば、嫉妬を上手に使えるヤツと使い方がめっぽう下手なヤツ、この両者に、圧倒的な差ができる、そんな時代になりました。嫉妬をエンジンにできるヤツは前に進むし、嫉妬をブレーキにしか使えないヤツは、その人自体が使えないヤツに成り下がっていく、そんな時代になったのです。国の人口が1億を越え、世界の人口が60億を越えるということは、そういうことなのです。
 
 
 

◆嫉妬ができる社会は良い社会

僕は嫉妬を前向きな感情として捉えています。逆に、嫉妬を感じなくなったら、女性はどうか分かりませんが、男性としては終わりだとも思っています。友達は現役合格したのに、自分は浪人となった、そんなときに、全く感情がみだれずに心の底から友達を祝福できる人は、聖人であって人間ではないと思っています。
 
さて、では例えばイチローに嫉妬することがあるかというと、そうでもありません。距離が遠すぎるからでしょうか。あるいは僕が野球に携わっていないからでしょうか。
 
が、後ろに座ってる同僚の一億円プレーヤーに対しては、少なからず嫉妬しています。同じ業界で、同じ商品を売っていて、そして全く異なる結果が出ているからでしょうか。
 
人は、全く異なる異世界の異次元の人には何も感じず、近くにいるちょっとした、しかし確実に差のある人には嫉妬を感じるように出来ているようです。
 
 
以前インドを旅した時に、とても不思議な光景を目にしたのを覚えています。インドはご存知カースト制が未だに尾を引いていて、至るところにその様子が垣間見えます。高級ホテルの目の前の少し先には物乞いの人たちがたむろし、そのホテルに入っていく上位カーストのお金持ちのインド人たちの様子を、景色のひとつとしてぼーっと見ています。
 
反対にその高級ホテルに入っていく人たちは、物乞いの人たちに対してモノを見るような目で一瞥したあと、淡々と歩き去っていきます。僕は高級ホテルの目の前の道からそのホテルに至るまでの、少なからぬ環境とそこにいる人の種類の変化に心を痛めながら歩いたにも関わらず、お金持ちのインド人たちは、僕の数分の一の逡巡も見せずに去っていくのです。
 
また、物乞いの人たちがお金持ちの人たちを見る目にも、不思議なものがありました。いや、表現が逆ですね、不思議なことに、『何もなかった』のです。つまり、何も感じていないようでした。そこに、嫉妬のような感情があるとは、僕には思えませんでした。生まれる前から決まっていたカーストという名の運命を、特に疑問なく受け入れた覚悟の惰性のようなものを、感じました。
 
このインドに見られた光景というのは、恐らく江戸時代以前の日本にも見られたもので、『階級社会とはこういうものなんだ』ということを、まざまざと見せつけられた思いでした。また、いかに今の日本が健全であるかということも、再認識しました。
 
 
『あいつがムカつく』とか、『なんであいつばっかり』とか、『俺はこんなもんじゃない』と身近な人に嫉妬できる社会というのは、言うなればとても開かれた社会であることの証明です。なんなら僕たちは、政治家だとかプロスポーツ選手にだって、嫉妬することができます。それは、政治もプロスポーツも、現代日本に生きる僕たちからすると全く別の世界の話ではなく、極めて現実的にリーチ可能な、『ほんの少し先の世界』にあることの証明だと言えます。
 
問題は、その嫉妬をエンジンとして使うか、ブレーキとして使うか、それだけです。ただそれだけなのです。だから健全に嫉妬しましょう。
 
 
P.S このエントリを、嫉妬深いライバルに送ります。
 
 
 

※『嫉妬』は上手にご使用いただくと、自己の成長につながる大きな原動力になります。用法用量を守って正しくお使い下さい。

 

 
 
世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただけたことを感謝します。
 
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羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

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「ラオウを目指す羅王のブログ」にようこそ。修羅が蔓延る世紀末の日本を、「北斗剛掌派」という思想体系を以て変える活動をしています。我が生涯に一片の悔いなし!と言える人生を送るため、101回目のダイエットに励んでいます。