ラオウを目指す羅王のブログ

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!我が生涯に一片の悔いなし!!!

The Dying Room

time 2010/12/08


気合の入った取材をしているだろうことが容易に想像でき、考えさせられることも多いクーリエジャポンの特集で、
少し前に衝撃的な記事があったのでそれに関するエントリー。
平穏なスイスの片田舎に、日本では考えられないタイプの非営利団体がある。 その名はディグニタス、その機能は自殺幇助組織。1998年の創設以来、既に1000人以上を世「から」送りだしているという。 「顧客」のほとんどは、末期の患者や不治の進行性疾患に苦しんでいる病人だ。 病院のチューブにつながれて生きながらえさせられたうえに、無残な死に方をするのはごめんだ、と訴える人を助けることを目的としている。
ディグニタスにくればすぐに世から送り出してもらえるわけではなく、そこにはある一定の手続きがある。
・80スイスフラン(約7000円)の年会費を払ってディグニタスの会員になること
・必要なのは診療録のコピー、何故生きることが耐えられないのかを説明した手紙、1860ポンド(約25万円)をディグニタスに送る
・以上を以って医者が総合的に判断し、致死薬を処方するかどうかを決める。
・その後1860ポンドを更に払い、具体的な死の準備に入る。
上記の手続き経た上で処方された薬を、手配された施設で家族と最期のときを過ごした後に飲むと、全く苦痛を感じることなく、2〜3分で人生を卒業することになる。 そしてその模様をビデオに撮影し、警察に提出することで一連の流れが終了する。
スイスでは、安楽死は禁止されているが、自殺幇助は認められている。日本だと安楽死はギリギリ議論の当落線上、自殺幇助に至ってはもってのほか、というふうになりそうなものだが、その視点からするとスイスの法律は、言葉を選ばずに言えば非常にユニークだ。ただし、このユニークというのも、僕の理解では恐らく日本より人権に関する議論が一回りも二回りも進んだ国家ゆえのユニークさだと思う。
日本における基本的人権は、既にそのほとんどが全く意識することなく達成されてしまってはや数十年たつため、
「はて、基本的人権ってなんだっけ?」と思ってしまうぐらい、我々は基本的人権を保証されている。空気や水と一緒で、薄くなったりなくなったりした瞬間に、爆発的な憎悪を持って基本的人権の奪回は図られると思うが、そんな事態自体が今の日本で起こるとは考えづらい。
ともあれ、この記事に関して、もし日本における基本的人権がほとんど考慮していないものがあるとしたら、それは「きちんと死ぬ権利」だと思う。安楽死を尊厳ある死として、本人の意思とは関係なく家族のみの同意を根拠として渋々ながら認めた日本は、先送り体質が板に張り付いているわりにはよくやったと思う。しかしながら、よくよく考えてみれば、生きることはトラブルさえなければ80年余りあるはずで、その中で幾度となく挽回のチャンスがあるのに対し、死はほんとのほんとに一回きり、それがダメなら全て終わり、というぐらい、とにもかくにも(当たり前だけども)一回しかない。その一回を、今までの人生の総決算として、素晴らしく良い時にしたいと思う気持ちと、それを可能にする法整備というのは、本当はあってしかるべきではないだろうかと今回の記事を読んでいて感じた。
ちょっとおしゃれなウィークリーマンションにしか見えない部屋で、家族が座れるソファや、ヴィヴァルディオッフェンバックのCDもあり、近くには素晴らしいレストランや映画館、ハイキングコースまである。全く病人が過ごす部屋のようには見えない。
ただそこが少し異質なのは、「最期の時」を過ごす部屋だということだ。
勿論、読んだ瞬間に「倫理的にどーなんだ!!」という一次感情は沸いてきた、それは当たり前。しかしよくよく考えてみると、本当に人権というものを尊重する場合、それをサポートする側の(我々から見たときの奇妙な)善意だけに寄らず、彼らの経済的破綻を避け継続的なサービスを提供するためにも一定のフィーを徴収してこういったNPO事業を展開することは、全く不自然ではないように思える。それがとても不自然に思えるのは、こういった自殺幇助が日本ではまだ「有り得ない」事象であることと、もうひとつはそれをお金を取って行っているという点だと思う。
「人間の尊厳を守るためというのはまだ100歩譲って納得できないまでも許せる。だがそれでお金をとるとはなにごとだ!!」
という意見が、間違いなく出ると思う。日本はとかく、NPOや献身的ビジネス(介護士や児童保護施設の職員など、報償よりも明らかに重度の献身が上回るようなビジネスと勝手に定義)に厳しい。ここではNPOetc.の有り方や是非についてどうこういうつもりはないけれども、そういうものは基本的に善意でやれ、利益はあげるな、が基本スタンスになってしまっていると思う。しかしそれはサービスを提供する当事者からすれば極めて乱暴かつご無体な話だ。
日本の献身と欧米の献身には大きな開きがあって、欧米ではその提供者の生活を守るための適切なコストを徴収することは基本的に認められているし、そうしなければそのサービス自体が遠からず提供できなくなることも、当たり前だがみんなが理解している。だから利益を上げることも全く問題視されない。だが日本では、善意のみに頼って報いることをしないから、本当の善意のある人たちが費消されるだけ費消されて、ボロ雑巾のようになって去っていく。そういった善意ある人たちはスーパーマンのように強靭なわけでも、ナイチンゲールのように底なしの愛を持っているわけでもなく、いわゆる普通の人間で少しだけ他の人たちより愛に溢れているやっぱり普通の人間なのだということを、我々はどこかで忘れてしまっているのではないか、と思う。
話が逸れてしまった。
こういう問題を話すときに不可欠になってくるであろう価値観が、死生観。どう生き、どう「死ぬ」のか。自殺幇助組織の是非がどのような評価を受けるのかは歴史の判断を待つことにして、この死生観について、我々はどう考えるべきだろう。欧米ではDeath Educationなる、死に関する教育が既に始まっていると聞くが、日本でそんな気配はない。これは別に暗い話でもなんでもなくて、人間いつかは必ず死ぬのだから、その日に向けて、いつその日が来ても悔いがないように、1日1時間1分1秒を大切に、光輝かせながら生きていこう、そういう教育である。そんな話ならば是非義務教育のなかにでも組み込んでほしいくらいだけれども、恐らく日本でそういうことが議題に登ることはないと思う。
幕末から明治維新、終戦までは、何人たりともいつ死ぬかは、いつも手元にある極めて手ごたえのあるものだった。そういう意味で、特に特攻隊にこれから組み込まれる、確実に死が迫っているその立場にある若者の精神の成熟度はすさまじかったと言われている。しかしその後数十年たって、水と安全は無料、といわれるまでに平和になってしまい、医療水準も世界最高となってしまった日本で、死を意識することはほとんどない。どこかの誰かには関係ある話かもしれないけど、僕には、少なくともしばらくは関係ない、そういうものが死という言葉の持つ緊張感のなさだろう。この数十年で、「死」という一文字が持つ緊張感の偏差値が、ぐっと、ぐぐーっと下がってしまったようである。
どう生き、どう死ぬかを考えなくなった日本人が、なんとな〜くダラダラ生きているように見えるのは、このせいなのかもしれない。やらねばならないことを差し置いてどうでもいい誹謗中傷、政策でなく人間性批判を繰り返す、国のリーダーたち、資本主義社会だから仕方ないにしても、視聴率という麻薬に取り付かれ、とにかく意味のない批判をするために意味のない獲物探しをするメディア、それに乗せられて右往左往する暇な(僕も含めた)大衆。
もし明日死ぬかもしれない、もう来年は迎えられないかもしれない、だったら今を精一杯生きよう、そう思って全員が毎日生きていたら、少なくとも日本はもう少し良い国になるのではないだろうか。
「貴方の命はあと3週間です」

こう言われたら、残りの時間を誰と何をしてどう過ごすか、日曜の朝からパチンコ屋に並んでる暇な人でさえ、真剣に考えるだろう。 それが
「貴方の命はあと30年です」
こう言われた瞬間に、ハタとその思考が止まり、またいつもの通りダラダラと無目的に時間が過ぎるのを待つのはどういうわけだろう。
僕も痛いほど文字通り痛感しているが、人間というのは、わかっていても出来ないことがある。合理的と分かっていても割り切って行動できないことがある。それでも、この「死」というものに関しては、今まであまり考える機会がなかったゆえに、毎日少しでも、チラリとでも頭の隅に置いておくようにすれば、これまでとは違った人生を選択することができるのではないだろうか。
少なくとも今、家族を持ってかわいいかわいい娘を授かった僕は、死ぬことが何よりも恐ろしい。だから、少なくとも毎日をきちんと意識しながら生きることが、以前よりは出来ていると思う。
『パパ、パパ』と意味も分からず口ずさみ始めた娘が、『パパ、ちゅき』と言ってくれるまでは生きたい。いや、それだったらお父さん徒競走で一位になってから死にたい。いや、もう少し大きくなって、うっかり鼻ピアスの彼氏を連れてきたらボコボコにして追い返し、父の強さと偉大さを見せてからあの世へ旅立ちたい。いやいや、バージンロードで信頼できる後継者に託すまでは、でもそしたら孫を見るまでは・・・と、そうしたら、死を意識しつつも、長生きしないとな、と思う僕であった。

家族とか教育とかの話

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羅王(AKBとも呼ぶ修羅も多いです)

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「ラオウを目指す羅王のブログ」にようこそ。修羅が蔓延る世紀末の日本を、「北斗剛掌派」という思想体系を以て変える活動をしています。我が生涯に一片の悔いなし!と言える人生を送るため、101回目のダイエットに励んでいます。