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ある日、僕は上下両方の娘(6歳:歩き、6ヶ月:ベビーカー)を連れて電車に乗っていた。最寄りの駅に着いたのでホームに降り立った。
おむつやもしもの着替えその他の荷物を積んだ、次女込みで総重量20kgほどに迫るベビーカーを引きずっていた。電車は混んでいたので、ホームに降りるのに少しだけ時間がかかった。とはいっても、10秒程度ロスしたぐらい。
少しまごつきながら電車を降りると、ものすごい勢いで一機しかないエレベーター前に人が集合していて、一瞬で並ぶ気が失せた。メンツを見ると、元気そうなおじさん、元気そうなおばさん。元気そうな若者は確かそのときはたまたまいなかったけれど、何をどう見ても全員明らかな健常者。
おじいさんおばあさんは皆無。杖を突いてるとか妊婦さんも皆無。
なんというんだろう。悲しくなった。エレベーターは一機しかない。そして、エスカレーターにベビーカーを載せるのは、原則禁止であり、毎回それを破って微妙なバランスを保ちながら載せている。
僕にはマイルールがあり、空いていても優先席には座らないし、荷物があってもホームのエレベーターには乗らない。いずれも必要としてる人がいるからであり、必要としてる人たちは、体力的に大体僕より下である。よって、僕みたいのが座ってたり乗ってたら、それだけで威圧されて、「座っていいですか?」なんて言うことは出来ないだろう。
と思うので座らないし乗らない。ただし、子どもと一緒とかベビーカーを引きずってるときは、お世話になることもたまにある。子どものセキュリティが第一だからだ。
そんな僕のマイルールは、所詮マイルール。自分ではある程度正しいと思っているけれど、本当に正しいか分からないし、正しくないと思ってる人もいるかもしれない。自分と違う考え方を許容するのも、民主主義社会に生きるには必要なことだ。
がしかし、なんだか悲しくなった。こちらは子ども連れでも元気だけれど、あの人達は実は全員末期がんなのかもしれない。そんな想定をであれば仕方ないなと自分を納得させることは出来るが、おそらくはそうじゃないだろう。
あるいは僕には子どもがいるからそう感じるだけなのかもしれない。あの人達は実際は子どもの何十倍も疲れるほどのハードワーカーで、エスカレーターなんぞ乗れないぐらい疲れてるのかもしれない。エレベーターに並ぶスピードを見ただけでそうではないだろうと思えたけれども。
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生きにくい時代になってきてると言われている。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。少なくとも、モノやサービスは僕が子どもの頃と比べても、比較にならないほど溢れている。そういう意味ではもうほぼほぼ満たされている。
UberとかAirbnbとか、すげーとは思うけど、無くても何にも困らない。僕たちは、少なくとも日本人はほとんど満たされている。
が、この感覚はなんなんだろうか。
僕のなかでは、家族や仕事もそうだけれど、社会と自分の関わりのなかで自己の幸不幸がある程度規定されるのではないかと考えている。
今の日本で、よく言われる「こういうの良くないよね!」とFBやらネットやらで回ってくる社会の出来事を総括すると、大体がこんな感じになっている。
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▼各人の守備範囲が決まっている。
▼レフトはレフトだけ、サードはサードだけ守ってる。広く守るショートやセンターすらいない。
▼他者には干渉しない。
▼その代わり他者からも干渉されない。
▼極めて合理的である。
▼そしてなんだか寂しく、息苦しい。
んで結局、「高齢者は優先席だけに座っとけ。」、「妊婦は満員電車に乗るな。」、「子どもの騒音がうるさい。」となる。専業主婦はバリキャリ女性を余裕のない人とみなし、バリキャリ女性はなぜか専業主婦が嫌い。障がい者は、物理的インフラは整備されつつあるものの、心のインフラが整備されないままなので結局のところ一生涯、「障がい者にしか分からない世界」で生きることになる。
こういう世界はなんとなく不幸だと思う。
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対して、僕が考えるなんとなく幸せな世界というのは、こういう感じ。
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▼各人の守備範囲が重複している。
▼レフトは必要に応じてライトも守るし、キャッチャーのフォローにも回る。
▼他者に適度に干渉し、他者からも適度に干渉される。
▼非合理的、非効率な部分もある。
▼が、なんだか温かい。
守備範囲を広げろとは、例えばGoogleの人が工事現場で働けということではない。ラーメン屋の大将にケーキを作れということでもない。
ただ、階段しかないホームでベビーカーをサラリーマンが持ってあげるとか、お金のある高齢者はNPOや震災募金に寄付してあげるとか、保育園が家の近くに出来そうになったら「昔は俺たちもうるさかったなぁ」とにこやかに対応するとか、仲の良いママが飲みに行きたいからウチで子どもを預かって飯を食わせてあげるとか、逆に自分がそうしたいときはお願いするとか、そういった「自分の守備範囲+α」について、
その「+α」をめんどくさいとかnone of my businessとか言わずに、ちょっとだけ手を差し伸べてあげることだけでも良いと思う。それさえ出来れば、ベン図のように最大公約数部分が発生し、人が人と助け合う理想的な社会になるんだと思う。
みんな身内には出来てる場合が多いんだけれど、他者になるとそこがいきなりシャットダウンするんですわな。勿論、無制限にやる必要はない。でも、やってもやらなくてもほとんど同じなら、やってあげた方がいいだろう。そんなことを思えるタイミングであれば、ぜひそれはやってあげたほうが良い。
ちなみに「席代わりましょうか?」、「ベビーカー手伝いましょうか?」と声をかけて、断られる確率は50%ぐらいある。皆結構見た目より強い。
断られるとちょっとだけ傷つくが、それでも僕にとってはやってもやんなくてもあまり変わらない「+α」の部分なので、引き続きやることにしている。特に損はない。
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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!

我が人生に一片の悔いなし!!!

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