どこにでもいる凡人の漸進的な前進と成長について綴ってきたこのブログ。
まもなく1000号が近づこうとしている。
うおー、すげー、俺すげー。
ほとんどのことが大して続かないままここまで来てしまった三十路オーバーの中二病患者の僕にとって、1000日間もの間、一つのことを続けて来てこられたというのは、ちょっとしたエポックメイキングな出来事である。
これからも頑張って続けていきたい。なにせ、師匠たちは3000日とか4000日の間、ブログやメルマガを書いていて、幾人かのライバルたちは1500日ほど書いている。
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さて、成長云々に関するブログを書いていると、基本的には成長やチャレンジが善で、惰性が悪といった区分けのパラダイムで物事を見るようになりがちだ。
それ自体は悪いことではない。自分のレベルを上げたければ、自分の力以上の物事にチャレンジしないと、今以上の力は付かない。
一方で、自分の力量の範囲内のことばかりやっていたら、不思議なことに長期的には緩やかな下りエスカレーターを下るがごとく、力は本人も気づかない程度に総合的に落ちていく。
だから成長は正しく、惰性は間違っている、と考えがちなことに、一定の合理性はある。
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んが、最近は惰性には惰性なりの良いところがあるように思えてきた。
惰性というのは、要するに頭を使ったり、踏ん張らなくても出来てしまう範囲の物事に対する姿勢のことだ。
その物事に関する成功確率は、惰性でやっている限りほぼ100%であることが多い。
気合いを入れてトイレを流す人はいないだろうし、死ぬ気にならないとご飯が食べられないという人はほとんどいないだろう。
そしてそこで力を使わないからこそ、他のことに関して100%、あるいは120%の力を使って挑むことができる。
早い話、全てが全力100%を必要とするチャレンジばかりであれば、常人のエネルギーなどすぐに枯渇してしまうということになる。多くて70%程度の力で、かつ確率100%の確度でこなす凡時に支えられてこそ、本当に力が必要な場面で力を込めることができるということだ。
本気で100%で物事にぶつかると、その成功確率は丁か半か、よくて50%ぐらいに落ちる。できるかできないか微妙なところにチャレンジするのだから、それは仕方ない。
しかし生活の全てでそれをやってしまうと、例えば50%の確率で電車には乗れるが50%の確率でドアに挟まれる。50%の確率で社長プレゼンがうまくいくが、50%の確率でクビを言い渡されるほどの失態を演じることになる。
チャレンジという意味では素晴らしい人生だけれど、それは果たして生活のトータルバランスとして正しいのだろうか?
僕はそうは思わない。
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なので、確率100%でこなさなければいけない事柄に関しては、それに取り組む際に70%程度の力で済むように、自分の力の絶対値を上げておく必要がある。
1歳児をトイレに一人で行かせると、便器外に漏らしたり間に合わなかったり紙が散乱したり、カオスを引き起こす確率がかなり高い。
彼彼女は100%の力でトライしているが、しかし成功確率は心もとない。
それが小学校6年生が一人でトイレに行くというのであれば、それはもう十分に信頼できる。よほどのことがなければ、トイレがカオスることはないだろう。
それは、小学校6年生のトイレ力が、1歳児のそれとレベルが違うからだ。
たぶん小学校6年生であれば、70%どころか、10%ぐらいの力しかトイレには使わないだろう。それだけの力を持っているからだ。
卑近な例で言うとそういうことになるけれど、つまりは自分が成し遂げたい目標のために100%の確率でそれをこなさなければならないとしたら、最大でも70%程度の「まぁちょっとだけ力入れたらできちゃうけどね」という程度にまで、力量を高めておく必要がある。
すごいことを惰性で出来たとしたら、それこそ本当にスゴいことだ。
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世知辛い世紀末にこのエントリを読んでいただいたことを感謝します。

退かぬ、媚びぬ、省みぬ!!!

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